"婚姻届の帰り道、残高は1億円だった" 第8話
源郎が痩せたをわずかに持ちげ、息子の腕に触れようとした。孝介さんはそのを両で包み込んだ。言葉はいらなかった。20といういがその瞬ので静かに溶けていくのが、くからでも伝わってきた。
私はそっと目を伏せた。胸の奥がくなっていた。 やがて孝介さんが病からてきた。その目は赤く充血していた。私は廊の自販で買った温かい茶を黙って差しした。彼はそれを両で受け取り、しばらく俯いたままかなかった。 「20だ……20、俺はを張り続けた」 絞りすようなその声。私は何も言わずただそばにっていた。かける言葉など見つからない。何を話したのかは聞かなかった。聞く必もなかった。
しばらくして、廊のベンチに井さんが座っているのに気づいた。いつのに来ていたのか、老いたは病の方を見つめたまま、ぽつりとこぼした。 「かったなあ……」 「井さんはごなんですね。あの親子に何があったのか」 私が尋ねると、井さんはいシワの刻まれた顔をゆっくりと横に振った。 「詳しいことはわしもらんよ。ただな、あの2が決裂したのは20のの夜だった。それだけは覚えとる」
の夜――その言葉がなぜか私の胸に引っかかった。井さんはそれ以は語らなかった。まるでそれをこと自体がはばかられるかのように。
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その夜、孝介さんは蔵へ帰らなかった。病の隅の丸子で歩もかず、父親の寝顔を見守り続けた。 翌朝、私が病に入ると、孝介さんはを消したように私へ切りした。 「み咲さん、おりて頼みがある」 「何でしょう?」 「親父がきてるうちに、あんたと夫婦になりたい」
私は息をんだ。 「式はあげなくていい。派なこともいらない。ただ、婚姻届を親父に見せてやりたいんだ。あのの最の望みだったから……いや」 彼は度言葉を切り、まっすぐに私を見た。 「それだけじゃない。俺自があんたときていきたいとった。こんな器用な男だが、嫁にきてくれるか」
その言葉に嘘や世辞の響きは微もなかった。私は自分のに問いかけてみた。これは恩返しなのだろうか。いや、違う。もうそんな理由だけではない。私はこの無で器用で、どこまでも誠実なこのの隣に、自分のでちたいとっている。 「はい、こちらこそよろしくお願いします」
私はくをげた。こうして私たちは誰にも告げず、2だけの静かな夫婦になることを決めた。
翌、私たちは町の役で婚姻届用をもらい、蔵の座敷で向かいって記入した。証の欄には、井さんが震えるで名をいてくれた。 「きはするもんだ」 井さんはそう言って目尻を指で拭った。
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「あとはこの1枚を役所にし、源郎に見せるだけだ」 そううと、議と胸が鳴った。
婚姻届に署名を押したその、私たちはまず病院へ向かった。眠るがほとんどになった源郎にこの1枚を見せるためだった。 「親父、見えるか?」 孝介さんが枕元でそっと婚姻届を広げた。源郎さんはく目をけると、そのにかれた2つの名をい見つめていた。桐み咲の名、そしてその隣に並ぶ息子の名。源郎の目尻から、ずっと筋の涙がこぼれた。
もう言葉を話す力はほとんど残っていない。それでも老は震えるを持ちげ、私と孝介さんのを順にぎゅっと握った。乾いてけれど驚くほど温かいだった。 「よかったなあ……」 かろうじて聞き取れたその言。それはいの最にようやく肩の荷をろしたのらかな声のように聞こえた。孝介さんはそのをしっかりと握り返し、絞りすように言った。 「親父、今まで済まなかった。このとちゃんときていく」
源郎にはもう頷く力さえ残っていなかった。ただその目だけが確かに笑っていた。私は涙をこらえるのに必だった。このの願いを1つ叶えられた。恩にしだけ恩を返せた気がした。
そので私たちは町の役へ向かい、婚姻届を提した。こうして私は正式に瀬み咲になった。
派な式も指輪もない。それでも私の胸は静かな幸福で満たされていた。