"婚姻届の帰り道、残高は1億円だった" 第6話
彼女は折に触れて酒蔵に顔をしては、私にたい線を投げていく。あるなどは、私が源郎のために煮た根の鉢を、玲子は別してこう言った。 「あら、こんな質素なもので、まああなたにはお似いね」
私は何も言い返さず、ただ黙ってその鉢を源郎の枕元へ運んだ。悔しさはみ込めばみ込むほど腹の底に静かに溜まっていったけれど、私は耐えた。ここで折れるわけにはいかない。私にはまだ確かめきれていないことがたくさん残っていたから。
酒蔵に通う々が続くうちに、私の胸にはいくつかのさな違が積もっていった。
1つ目はかりだった。夜、源郎の見いを終えて酒蔵に泊めてもらう晩、母の奥のに決まって遅くまでかりが灯っている。消灯部だという。潰れかけの酒蔵の主が体何をあんなに夜遅くまで見ているのか。1度だけいた襖の隙からを覗いてしまったことがある。孝介さんは机に積まれた分い類の束をに、難しい顔で卓を叩いていた。その1枚に見慣れない横文字の社名らしきものが記載されていた気がしたけれど、私は何も尋ねなかった。詮索するのは私のやり方ではない。
2つ目はある昼がりの来客だった。酒蔵に都会のスーツを着た若い女性が訪ねてきた。
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葛美ほと名乗るそのは、きな革のカバンを抱えている。 「本は決済のご確認をいただきたくお伺いしました」 丁寧にそう切りした彼女に、孝介さんはく応じた。「ご苦労さん、座敷に通す」 2が母へ向かおうとした、ふと孝介が言い直した。 「では社、こちらの類から――」 その瞬だった。孝介さんが鋭い線を彼女へ向けた。女性はピタリとをつむぎ、慌てて言い直した。 「失礼しました、孝介さん。こちらの類からご確認をお願いします」
社……。確かに彼女は今そう言った。私はわず洗い物のを止めたけれど、それきりその呼び名が2のからることは2度となかった。私の聞き違いだったのだろうか。いや、あのの孝介さんの目は、らかに何かを制していた。
そのの夕暮れ、私は井さんにそれとなく聞いてみた。 「井さん、孝介さんは昔からずっとこの酒蔵に?」 井さんは麹蓋を刻むを止めず、くを見るように言った。 「いやあ、あのはな、若い頃に1度このをたんだ。それから何もして、ふらりと1で帰ってきた。空っぽになりかけていたこの酒蔵を、たった1でまたて直したのさ」 「お1で?」 「ああ、何があったのかはわしもらん。ただな……」 井さんはし声を落とした。「あのは源郎のことになると決まってをざす。
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20。ただの1度も親父さんに会おうとはしなかった。それでいて、源郎が倒れてからは毎朝誰も見ておらんとって神棚にをわせとるよ。良くなってくれとな。器用な親子だ」
その言葉は私の胸にく残った。
3つ目はのことだった。潰れかけの酒蔵。運転資を従妹から借りているはずの酒蔵。それなのに、孝介さんがの面で困っている様子を私は1度も見たことがなかった。設備が古い部品で壊れれば、彼は淡々としいものを取り寄せる。職たちのが遅れたという話もにしたことがない。
このは何者なのだろうという疑問は、ごとにきくなっていった。それを打ち消すように、孝介さんはいつもさりげない優しさを私へ向けてくれる。帰り-が遅くなれば暗いは危ないと必ず軽トラで送ってくれた。源郎の見いにくといえば「これを持っていけ」と源郎の好きだった干し柿を黙って袋に入れて持たせてくれる。
ある晩、その軽トラの助席で、私はい切って尋ねてみた。 「孝介さんは、どうしてこんな奥でたった1酒を作り続けてるんですか?」 孝介さんはしばらく黙っていた。ヘッドライトが暗いを細く照らしている。 「逃げてきたんだ。を肩きだのだで見すあの世界からな」 「肩きですか?」
「ああ、あそこには嘘しかなかった。だがこのは違う。米ももをかけた分だけ正直に答えてくれる。ごまかしのきかないこの世界の方が、俺にはよっぽど居がいいんだ」