みかん小説
本棚

"十年前に死んでいた夫" 第11話

私は息を呑んだ。

「母親が……まだ、そこに?」

「ああ。志保ちゃんは……に施設へ移ったと聞いてるが、母親はずっとあそこに残って、敬を呪いながら暮らしてる。……くなら、覚悟してきな。あの母親に敬のことを話せば、塩を撒かれるどころじゃ済まねえぞ」

ると、はすっかりに傾いていた。 空は赤黒く濁り、川面を渡るが、鋭い氷の刃のように頬を裂いた。

私はコートのポケットので、彫りの鳥をく握りしめた。 指先に、の尖った嘴がい込んで痛かった。

を、流へ向かって歩き始めた。 夫が背負い続けた、の暗の底へ向かって。

川沿いのは、どこまでも続いていた。

の夕暮れはい。 の空を焼き尽くすような毒々しい茜は、あっというえ切ったへと呑み込まれ、川面を渡るたさだけが、ナイフのようにコートの襟元を切り裂いていた。

枯れた葦(あし)の群れが、に煽られてザワザワと音をてる。 まるで、見らぬ音を威嚇しているかのようだった。 に広がる畑は既に収穫を終えて黒々とした塊を晒し、の川は、澱んだを音もなく流へと運んでいる。 灯などつもなかった。 くで折、幹線型トラックの音が、鳴りのように響くだけだ。

広告

私のは、とっくに覚を失っていた。 いパンプスは砂利を踏むたびにを噛み、爪先がジンジンと痛んだ。 だが、ち止まることはできなかった。

輪敬

で、夫の本当の名を繰り返す。 沼田の作業で見た、あのの写真。 所の仲たちの輪から歩引き、照れくさそうにを向いていた若い頃の夫。 そのが、私のる「佐伯孝之」だった。

なぜ、名を捨てたのか。 なぜ、の青の診察券を握りしめ、分証も持たずにのようにきなければならなかったのか。 沼田老の言葉が、の奥でこびりついてれなかった。

——あいつは煙を逃がそうとして、排気の防ダンパーを閉めちまった。 ——煙の逃げがなくなって、奥のにいた娘が酸化炭素に呑まれた。

の、の夜。 暗で、夫が犯したたった度の致命な過ち。 助けようとして、必にもがいた結果の、取り返しのつかない劇。 その過ちが、歳だった女のを奪い、そして夫自をも永に焼き尽くしてしまったのだ。

あのは、度も私にそのことを言わなかった。 どんなにしてうなされても、決して過名やの名をにしなかった。 ただ、の夜になると、決まって窓のをじっと見つめていた。

広告

『寒いね、久恵さん』 そう言って、私が差し湯を、両で包み込むようにしてんでいた。 あの、彼が見つめていたのは、京の裏の暗ではなかったのだ。 あの凍てつくような、災の夜の煙だったのだ。

キロほど歩いたところで、方に黒々とした巨な構造物が浮かびがってきた。 川のだった。 コンクリートの苔むしたの根元、の傾斜にへばりつくようにして、軒の平が建っていた。

壁の杉板は潮で真っ黒に変し、波板トタンの根には古タイヤがいくつもとして乗せられている。 庭と呼べるような所はなく、に敷かれたコンクリートブロックのに、褪せたサンダルがに晒されて転がっていた。 見すると、とっくに打ち捨てられた廃のようだった。

だが、板戸の隙から、ぼんやりとしたが漏れていた。 細い煙突から、粗悪な灯油が燃える独特のツンとした匂いが、に乗って漂ってくる。

が、いる。

私は息をえ、の急斜面を滑り落ちるようにしてりた。 乾いた枯がストッキングに引っかかり、が靴を汚すのも構わなかった。 胸の奥で、臓が肋骨を突き破らんばかりにねていた。

コートのポケットにを差し入れ、あのさな彫りの鳥に触れた。

滑らかな肌。 夫の指先の温もりが、今もそこに宿っているような錯覚を覚える。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: