"十年前に死んでいた夫" 第10話
「どうして……」 私は涙を拭うこともせず、老に縋るように問いかけた。
「どうして主は、自分の名を捨てて、くなった佐伯さんの名を名乗ったりしたんですか? 、佐伯さんがくなった、主はその診察券をに入れて、ずっと佐伯孝之としてきていました。警察にもかず、病院でも保険証を使わず、怯えるようにして……! 主は、何をしていたんですか!」
沼田老は、目を伏せた。 その顔に、暗いが落ちる。
「佐伯の名を使った理由は、俺には分からねえ。……だがな、奥さん。敬が名を捨てた理由は、つしかねえよ」
老はちがり、作業の奥の窓へ歩いていった。 窓の向こうには、の枯れに覆われたいが見えている。
「あの事だ」
老は絞りすような声で言った。
「平成のだった。あの夜、乾燥の配盤がショートしてがた。夜の過ぎだ。敬は番に気づいて、のにび込んだ。乾燥の奥には、佐伯と、もう……み込みの女の子が寝てたんだ」
「女の子……?」
「佐伯の妹分みたいな子でな。名を、志保といった。まだだった。敬は佐伯を引っ張りして、それから志保を助けようと、煙が充満するのへ戻ったんだ。だが……」
老は言葉を詰まらせ、拳を握りしめた。
「で真っ暗だった。煙でも見えねえ。
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敬は煙を逃がそうとして、排気ダクトの防ダンパーを操作したんだ。だが、パニックになってて……レバーを逆に回しちまった。排気がくんじゃなく、完全に遮断されちまったんだ。煙の逃げがなくなって、志保が逃げ込んでた奥の部に、酸化炭素が全部流れ込んだ」
私の喉が、ひくりと痙攣した。
「敬が壁をぶち破って志保を抱きしたには……もう、遅れだった。息は吹き返したが、脳にい障害が残った。言葉も喋れず、で体を起こすこともできねえ体に……なっちまったんだ」
が、ガタガタとトタン窓を揺らした。
「敬のせいじゃねえ、誰もあいつを責められねえって、俺たちは言ったよ。をつけたわけじゃねえ。助けようとして必だったんだからな。……だが、敬は自分を許さなかった。警察の調べが終わった、あいつは座して、所のも、も、親父の遺産も全部売り払って、志保ちゃんの治療費と賠償として母親に渡した。……だがな、奥さん。で解決するような話じゃねえんだ」
老は振り返り、私を真っ直ぐに見た。 その目には、拭いることのできない過の痛みが宿っていた。
「志保ちゃんの母親は、気が狂わんばかりに敬を罵ったよ。『おが殺したようなものだ』『おの顔を見るだけで虫唾がる』『私たちのから消えてくれ』ってな。
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……敬は、それを受け入れた。町をて、度と戻らないと誓って、消えたんだ」
「そんな……」
「だが、あいつは消えちゃいなかったんだな」 老は削り台のの彫りの鳥を見つめた。
「佐伯がに事故でんだ、あいつは佐伯の元引受として、こっそり京の警察へったのかもしれねえ。佐伯には寄りがなかったからな。そこで佐伯の診察券か何かをに入れて……あいつは、佐伯孝之になったのか」
「どうして……どうしてそこまでして、佐伯さんの名を?」
「さあな。だが、敬というがこの世にきている限り、あの母親にとっては『娘を奪った仇がきてどこかで息をしている』ってことになる。あいつは、輪敬というを、この世から完全に消したかったんじゃねえのか」
胸が張り裂けそうだった。 、私の隣でさく丸まっていたあの背。 彼は、名を奪ったのではない。 自分というを、この世から抹殺していたのだ。 罪を償うために。 誰にもいされない、ただのになるために。
だが、老はそこで、い息を吐きながら言った。
「……奥さん。あんた、敬の骨をどうするつもりだ」
「わかりません。私は、ただ……あの方の本当のことをりたくて」
「なら、つだけ教えてやる」 老はの方を指差した。
「このを流に向かってキロほどったところに、古いがある。
その脇に、バラックみてえな古い平が今でも軒だけ残ってる。……志保ちゃんの母親が、今でもそこにでんでるはずだ」