"十年前に死んでいた夫" 第4話
彼はただ『すまないね、次はちゃんと持ってくるから』とさくをげるだけだった。
あの診察券は、体どこでに入れたものだったのか。 に病院でんだ、歳の見らぬ若者。 その名を、彼は、自分の名として名乗り続けていたというのか。
「あなた……誰なの?」
静まり返った部で、私は骨壺に向かって呟いた。 返事があるはずもなかった。 畳のに散らばった類のので、私は自分の両を見た。 このは、、誰の体を拭いていたのだ。 私がし、取り、涙を流して骨を拾ったあのは、本当にしていたのだろうか。
気が狂いそうだった。 自分が信じてきた現実が、まるで品のように消えってしまったかのようだった。
だが、その、私の線が文机の脇に落ちた。 そこには、夫がくなるまで握りしめていた、さな彫りの鳥が転がっていた。 掌に収まるほどの、桜ので作られたさな鳥だ。 彼が夜に咳で眠れないとき、さな彫刻刀でしずつ削りしていたものだった。
私はうようにしてその鳥を拾いげた。 滑らかに磨かれたの表面は、夫の指の脂で鈍いを放っていた。 たく乾いた肌から、かすかに、夫のの温もりが蘇るような気がした。
じゃない。 幽霊なんかじゃない。 彼はここにいた。
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毎朝、私が作った噌汁を『美しいね』と言ってみ干し、がれば私の傘を持ってバスまで迎えに来てくれた。 の夜、私のえたを自分ののに挟んで温めてくれた、あの体温は、決して偽物などではなかった。
彼はしていた。 ただ、その名だけが、偽りだったのだ。
「理由があるはずよ」
私は呟いた。 涙はなかった。 代わりに、え切っていた腹の底から、乾いた炎のような志がちってくるのをじた。
私を騙してを巻きげるためなら、こんなボロアパートでも貧乏暮らしをするはずがない。 暴力を振るうわけでもなく、借を残すわけでもなく、ただひたすら息を潜めるようにして、私に謝しながらんでいった。 彼が名を捨て、の名を被ってまで守らなければならなかったものは、何だったのか。
私はちがり、壁の鴨居に掛けられていた夫の着にを伸ばした。 チャコールグレーの、古びたコーデュロイの着。 彼がへるときは、季節を問わず、いつもこれを羽織っていた。 襟元はすり切れ、肘のあたりは摩擦でがくなっている。
ポケットにを突っ込んだ。 のポケットには、くしゃくしゃになったナプキンと、浅田飴の缶。 のポケットには、百円玉が枚と、さな真鍮の鍵。どこの鍵かもわからないものだ。
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何もない。 そうってを引き抜こうとしたとき、指先が着の裾の裏に触れた。 何かが、引っかかった。
わずかなさ。 布と裏の、普通なら何もないはずの裾の折り返し部分に、名刺のい触があった。
私は着を畳のに広げ、裏をめくった。 裾の内側、縫いの糸で雑に縫い直された痕跡があった。 黒い綿糸で、器用にかがり縫いがされている。 着本来の縫製とはらかに違う、素の仕事だった。夫自の縫い目だ。
私は裁縫箱からさなバサミを取りし、その黒い糸を本ずつ、慎に切っていった。 プチ、プチ、と静かな部に糸の切れる音が響く。
裏をくと、から現れたのは、何にもさく折り畳まれた枚の片だった。 いを経て、の端は茶く変し、皮脂を吸って油のように透けている。
息を殺しながら、破かないように指先で慎に広げた。
それは、枚の領収の切れ端だった。 昭の終わりか、平成の初め頃のものだろうか、粗悪な藁半のような触りだった。 表面には、万の青黒いインクで、震えるような細い文字がかれていた。
『平成』
付のには、見らぬ名が記されていた。
『常磐線 羽鳥駅 』
そして、その横に、さな数字の羅列。 話番号ではない。桁の数字。
郵便番号だろうか、あるいは私箱の番号か。 だが、私の目を最もく引きつけたのは、その片の最段に、万で度かれ、そのから黒いボールペンで激しく塗りつぶされた、い文字列だった。