"3か月寝たきりの娘を、婿に黙って連れ出した日" 第1話
鍵の向こうの異臭
健のが角を曲がった直、階段のから、それまで嗅いだことのない臭いがりてきた。甘い消臭剤の奥に、湿った布を何も放置したような、息を止めたくなる臭いが混じっていた。
「さやか。お母さんよ。聞こえる?」
すりにつかまって2階へがり、娘の寝の戸を叩いた。返事はない。取っをげても、指紋認証式の鍵がさく鳴るだけだった。鍵をけられるのは、娘の夫だけだ。
32歳の娘が寝たきりになって、3かになる。最に顔を見てからは10が過ぎていた。
戸にをつけると、奥で何かが擦れる音がした。そのあと、喉の奥から押しすような、かすかな声が聞こえた。
「……おかあ、さん」
私は携帯を取りした。健への発信画面を閉じ、119を押した。
所を告げる声が裏返った。病気の娘が施錠された部にいて、呼びかけへの反応がい。鍵を持つ夫はした。質問に答えながら、私は何度も戸の向こうへ声をかけた。
「今、けてもらうから。そこで待っていて」
さっきまで、この声で話せば健に鳴られるとっていた。
がけにも彼は、の夕方まで阪だと告げたあと、訪問の配はしてあるから部に入るなと言った。染を起こしたら責任を取れるのか、と。
責任という言葉を向けられるたび、私は取っからをしてきた。
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今はもう、せなかった。
救急隊を待つに、所をっている元教え子のたけしへ話した。タクシーの仕事だったが、私の声を聞くと、へ向かうと言ってくれた。玄関の鍵をけにりたところで、膝が折れそうになった。すりを握り直し、また娘の部へ戻った。
到着した隊員に状況を説すると、応援も呼ばれた。扉をけるために壊す部分がるかもしれないと聞かれ、私は頷いた。
「私のです。構いません。娘をしてください」
この世田のは、以のまいを売ったおと蓄えをわせ、私が5000万円で買ったものだった。娘夫婦と暮らすために選んだで、娘に会う許を求めていた。そのおかしさが、壊れる扉の音と緒に胸へ落ちてきた。
いた隙から、臭いが気に押し寄せた。
いカーテンは閉じられ、窓際には消臭剤の容器が並んでいた。ベッドののさやかは、目だけをこちらへ向けた。頬の丸みがなくなり、襟元からた首は、私のっている娘のものとはえないほど細かった。
「さやか」
抱き起こそうとした私を、隊員が穏やかに制した。体を確かめながらかすので、し所を空けてほしいと言われた。
私はベッドの元にがった。寝具が慎にめくられたとき、隊員同士の声がくなった。背側の布には広い染みがあり、娘はわずかに顔をしかめた。
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けれど、痛いとも言えなかった。
「お母さん、普段のお薬はどこですか」
「婿が管理しています。名は……分かりません」
にして、初めてその答えの頼りなさが分かった。
私は枕元のさなトレーを指した。い器と、名のない袋が載っている。隊員はを確かめ、残っているものを病院へ持っていくと説した。
さやかのがいた。私に向けて伸びたのだとってづくと、指先はマットレスの端を擦った。シーツがし引かれ、そのの縫い目が見えた。
「何かあるの?」
娘の唇はいたが、声にならなかった。隊員に呼ばれて私は横へずれ、運びされる娘の顔を覗いた。
「お母さんもくからね」
玄関にはたけしが来ていた。34歳になった教え子は、私の靴と鞄をそろえ、戸締まりを引き受けてくれた。救急へ乗り込むとき、ろからさく言った。
「先、もうに頼っていいんです」
内で私は、娘ののくに自分のを置いた。触れていいか迷っていると、指がほんのしこちらへ寄った。健の許を取らずに娘に会うことが、こんなにも久しぶりだった。
病院に着くと、さやかはすぐに処置へ運ばれた。私は廊に残り、に持ったままの携帯を見つめた。健からの連絡はまだなかった。
しばらくしててきた医師は、私のに腰を落とした。
「最に、医師が直接さやかさんを診たのはいつですか」
国の専医、特別な治療、染を防ぐための静。健の言葉ならいくらでもいせた。
けれど、娘を診察した医師の顔を、私は1もい浮かべられなかった。