"息子が私の家を売る夜" 第18話
智美さんは桐の箱の蓋をけました。 から現れたのは、あの飴に輝く、牛の角でできた美しい印鑑でした。
介が、息を呑んでその印鑑を見つめました。 さんも、桐の箱の古さと々しさに目を留め、わずかに堵したように息を吐きました。
「なるほど……確かに、お使いになられている実印のようですね」
「ええ! これで分でしょう? 委任状のサインは、が震えて字がけない義母に代わって、介が代いたします。そして、ここにこの実印を押せば、法に完璧な代理権が成いたしますわね?」
智美さんはそう言って、テーブルのに置かれていた赤い朱肉のケースをパチンとけました。 油の混ざった独特の朱の匂いが、リビングのたい空気にちります。
「さあ、介さん。くサインして。さんもお忙しいんだから」
智美さんは牛の印鑑を指先でつまみげ、介のに握らせようとしました。 介のは、刻みにカタカタと震えていました。 ボールペンを握る指先がくなり、額から垂れた粒の汗が、契約の余にポツンとさなシミを作りました。
「介さん、何をもたもたしてるの! く!」
智美さんの鋭い声がぶ。 介は追い詰められた獣のような目で、契約の「代理署名欄」にペン先を落とそうとしました。
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印鑑が、朱肉の赤いスポンジに向かって、ゆっくりと振りろされようとした――まさにその瞬でした。
コツン。
静まり返ったリビングに、く、乾いた、しかしい音が響き渡りました。
私がに持っていた、樫のでできたリハビリ用の杖。 そのいゴムの突きが、テーブルの脚を、静かに、しかし断固たる力で度だけ叩いた音でした。
その微かな振に、介のペン先が面のでピタリと止まりました。 智美さんもまた、印鑑を振りろしかけた姿勢のまま、縛りに遭ったようにきを止めました。
「……お義母さん? 何なんですか、急に。危ないじゃありませんか」
智美さんが苛ちを隠そうともせず、私を睨みつけました。
私は、杖を静かに自分の膝の横に戻しました。 そして、背筋をピンと伸ばしたまま、テーブルの央に広げられた類の束へ、ゆっくりとを伸ばしました。
「ちょっと、お義母さん! 勝に触らないで……!」
智美さんの静止を無し、私は番に置かれていた『専任媒介契約』と『査定報告』を元に引き寄せました。 鏡をかけることもなく、私の線は淀みなく類の文面を滑っていきました。
リビングが、を打ったように静まり返りました。 誰もが、次の瞬、私が「これは何かしら」「字がさくて読めないわ」と、ボケた寄りらしい音を吐きすものだとい込んでいました。
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しかし、私のから滑りたのは、そのにいた全員の呼吸を凍りつかせる、極めて晰で、徹な言葉でした。
「さん」
私は顔をげ、産の営業マンをまっすぐに見据えました。 その声には、震えも、迷いも、老いの翳りも、微もありませんでした。
「この媒介契約、第条の物件表示に、な瑕疵がありますね」
さんの目が、信じられないものを見るように見かれました。
「……は? 瑕疵……ですか?」
「ええ」
私は類の特定のを、差し指でトントンと軽く叩きました。
「所表記は『京都練馬区関町丁目番』となっていますが、法務局の公図における正確な番は『の』および『の』のです。昭に、隣の境界確定の際に分登記をっていますから、私負担部分の持分分のが、この契約の物件目録から完全に抜け落ちています。私持分の売買承諾を添付せずに媒介契約を結べば、、買い主側から通掘削の承諾が得られないとして、な契約適責任を問われることになりますよ」
「な……!?」
さんが、子から腰を浮かせかけました。 その顔から、営業用の笑顔が完全に消えり、驚愕と狼狽のが広がっていきました。
「そ、そんな……私負担の分……? 登記報提供サービスで取得した謄本には、そこまでの記載は……」
「本登記の閉鎖登記簿まで遡って確認していらっしゃらないのでしょう」