"追い出された四畳半" 第3話
界の端で、莉緒が居の姿見のにち、自分の顎のラインを指先でなぞりながら満そうに微笑むのが見えた。
この女の目には、私はとして映っていない。 壁にえたカビや、壊れかけの湯器と同じ、ただそこにある便利な設備のつに過ぎないのだ。
ガスコンロにやかんをかけ、青い炎を見つめる。 シューという属の軋む音が、狭い台所に響き渡る。 私は沸騰を待ちながら、エプロンのポケットので、く握りしめた拳の爪をのひらにい込ませていた。
——絶対に、このまま終わらせない。
だが、どうする? 実印は奪われている。 おそらく、私が畳半の部の押し入れの奥、母の形見の桐箱のに隠していた印鑑登録カードも、すでに盗まれているはずだ。 警察に駆け込むか? いや、警察は「同居同士の民事当利得」や「印鑑の貸し借りトラブル」として処理し、払いにする能性がい。 公団の窓に泣きつくか? だが、あそこにはすでに私の実印が押された「退承諾」が提寸の状態なのだ。 私が「騙された」と叫んだところで、証する段がなければ、ただの同居解消の揉め事として処理され、続きがんでしまえば私はにも放りされる。
やかんが甲い笛の音を鳴らした。
「茜、うるさい! く止めてよ!」 居から莉緒の苛った声がぶ。
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「……今、入れる」
私はを止め、マグカップに湯を注いだ。 湯気越しに見える自分のは、驚くほど静かに止まっていた。 恐怖の波が引き、そのに残ったのは、鉛のようにく、どこまでも徹な覚悟だった。
私は湯の入ったカップを盆に乗せ、居へと運んだ。 莉緒はソファに浅く腰掛け、爪の甘皮をやすりで削っていた。
「はい、湯」 「ありがと。あ、茜さ、今の夜って倉庫?」 「……うん。夜勤。の朝まで」
莉緒の元が、わずかに緩んだのを私は見逃さなかった。 「そっか。変だねー、夜通し荷物運ぶとか、私絶対無理。あ、鍵、ちゃんと掛けといてね。物騒だからさ」
今夜だ。 私が夜勤でいないに、あの男——須藤をこの部に引き入れ、何かの準備を完させる気なのだ。
「莉緒」 私はカップを置いたを止めず、伏し目がちに、ごく自然を装って呟いた。 「そういえば、公団の管理事務所から、何か届いてなかった? 毎の、収入申告の類とか……」
その瞬、空気が凍りついた。
シャッ、シャッ、と爪を削っていた莉緒のが、ぴたりと止まった。 彼女の伏せられていたい睫毛がゆっくりと持ちがり、その奥にあるたく濁った瞳が、私の顔をじっと射すくめた。
沈黙が、のにく沈殿する。 台所の換気扇が、油切れのファンをキュルキュルと軋ませていた。
「……何それ?」 莉緒の声から、先ほどまでの甘ったるい響きが完全に消え失せていた。
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「茜、なんか見たの?」
「ううん。ただ、の今頃、役所から黄い封筒が来てたのをいしたから。さないと、賃ががっちゃうって言ってたでしょ」
私はあえて、無で怯えたような表を作り、線を彼女のスリッパの先へと落とした。 莉緒は数秒、私の顔を値踏みするように探っていたが、やがてでさく嘲笑を漏らした。
「あんた、ホント馬鹿だよね。そんなの、私がとっくに役所のと話つけて処理してるに決まってんでしょ」 彼女はやすりを放りし、湯にをつけた。 「茜はさ、難しいこと考えなくていいの。で段ボール運んで、決まった賃だけ私に払ってればいいの。世の続きとか、あんたみたいな卒の派遣には無理なんだから。余計なこと首突っ込まないでよ。気分悪くなる」
「……ごめん」
「わかればいいの。ほら、く準備して仕事きなよ。目障りだから」
莉緒はそう吐き捨てると、テレビのリモコンを乱暴に操作し、朝のワイドショーの音量をげた。 私はをげ、静かに居をた。
自である畳半に戻り、襖を閉める。 畳の隙から、階の老夫婦の咳払いが微かに聞こえてくる。 私は押し入れの奥にを伸ばし、古い装ケースの底に敷いてあった聞をめくった。
そこにあったはずの、母の形見のさな桐箱。 蓋をけると、底に収めてあった私の通帳と、印鑑登録証のカードが、綺麗に消え失せていた。