"十年介護と九千万円" 第6話
「……ん……」
男の喉から、いうなり声が漏れた。 だが、それは覚の図ではなかった。 夕のスープに混ぜた眠薬が、依然として男の神経を鈍らせていた。 男はきなため息をつ吐くと、再びゴォーとをうような鼾をかき始めた。
私は音をてずに、ゆっくりと肺の空気を吐きした。 額から脂汗が流れ、目に入ってしみる。
油断はできない。 私は震える指で、黄い類を元通り黒い防油布のに戻した。 属製の釣り具箱のい蓋を、蝶番が擦れわないようミリずつ、分以かけて閉じる。 京錠のツルを掛け、カチリと鳴らないよう掌で包み込みながら押し込んだ。
字キーをポケットに滑り込ませ、私はうようにしてベッドのから抜けした。
襖を音もなく閉め、自分のせんべい布団に戻った、計の針は午分を指していた。
布団をから被っても、歯の根がわずにガチガチと鳴り続けた。
健は、んでいる。
の、ごと崖から転落し、蓋骨を砕された状態で骨まで焼かれた。 それが、警察の内部資料に記されていた酷な客観事実だ。
なら、今隣の部で寝息をてているこの男は何者だ? なぜ健の戸籍を使い、健の顔をして、健の妹である私にも介護させているのか?
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そして、迫。 兄の元司であり、警察OB会や公団の自治会として「英雄の遺族を支える格者」の仮面を被り続けてきたあの男。 迫が、この男が偽者だとらないはずがない。 、識の「健」を病院から引き取り、私に「妹のおが面倒を見るのが番だ」と勧めたのは、ならぬ迫だったのだから。
すべてが繋がった瞬、全の毛穴からたい汗が噴きした。
これは介護などではない。 んだ本物の兄の代わりに、正体の犯罪者を匿い、公な付を騙し取り、私の労働力で世の目を欺くための、巨な隠蔽作だったのだ。
私は、兄を殺したかもしれない男の汚物を洗い、体を清め、いもやしを啜りながら、奴らの代わり形としてかされてきたのだ。
りで爪がのひらにい込み、血が滲んだ。 涙はなかった。 ただ、胸の奥で、どす黒い憎悪がたい炎となって燃え盛っていた。
眠れるはずもなかった。 私は暗ので目を見いたまま、畳半の壁に刻まれた染みをじっと見つめ、夜がけるのを待った。
*
午。 聞配達のバイクの音がくで響いたのを図に、私は布団を畳んだ。
台所にち、蛇をひねる。 凍えるようなで顔を度洗い、鏡を覗き込んだ。 目のには赤黒い隈ができ、頬はこけていた。
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だが、その瞳の奥には、昨までの怯えきった「気のいい妹」のはなかった。
呼吸をつ。 表筋を弛緩させ、演じ続けてきた「愚鈍で献な介護者」の顔を作り直す。
根の皮を剥き、く切って鍋に入れる。 すり鉢で豆腐をすり潰し、男の朝用にとろみ剤を溶かした流を作る。 トントン、トントンと、包丁の乾いた音が狭い台所に響く。
「あ……う……」
午半、予定通りの呻き声が隣からがった。 襖をけると、男は寝巻きを乱し、を胸元でぎこちなく痙攣させていた。 枕にはわざとらしく涎が垂らされている。
「おはよう、お兄ちゃん。今、体拭くからね」
私は努めて穏やかな、し掠れた声をした。 い湯に浸したタオルを絞り、男の顔に当てる。 男は々しく目を細め、喉をさく鳴らした。
タオル越しに、男の顎のライン、首筋の皮膚、の裏の形状を指先で確認する。 骨格は確かに兄の健に似ている。 だが、たぶの形が違う。 本物の兄は、福でたぶがにく垂れていた。 だがこの男のたぶは、さく部へ切れ込んでいる。
なぜ今まで気づかなかったのか。 、迫に「脳梗塞で顔の筋肉がひどく張り、相が変わってしまった」と聞かされていたからだ。 内が変わり果てた姿で戻ってきた、は「これが偽者かもしれない」
などとはにもわない。 その理の隙を、奴らは完璧に突いたのだ。
男の寝巻きを剥ぎ取り、温湿布を背に当てる。 肩甲骨のあたりに、古い傷の痕のようなケロイドがさく残っているのが見えた。