"十年介護と九千万円" 第1話
夜分。 軋む造公団の畳半で、んだはずの男が煙を吸っていた。
に脳梗塞で倒れ、半の自由と発話能力を失ったはずの兄が、である。
の、カチリと質な属音が響き、ジッポライターのさなが揺れた。 照らしされたその横顔には、昼ベッドで見せる痙攣も、濁った気のない差しもなかった。 酷なを宿した瞳で、男は器用に煙を細い隙からへ吐きしていた。
あの異変に気づいたのは、のことだった——。
*
千葉県部に位置する、築の県営造公団宅。 壁のコンクリートはに削られて黒ずみ、階にある402号の玄関をければ、いつでもカビとが混ざりった湿った臭いがをつく。
私のは、でなくても赤黒く腫れがっている。 ひび割れた指先に、業務用のめた次亜塩素酸ナトリウムが容赦なく染みた。 痛みに奥歯を噛み締めながら、私はステンレスが錆びついた狭い流し台で、兄の着古した防寒ジャンパーを洗いしていた。
、元警察官だった兄の健(当歳)が非番のに突然倒れ、度の遺症を負った。 「妹のおしか寄りがないんだ。健を頼む」 そう言って続きを仕切ったのは、兄の元司で、公団の自治会も務める退役警官の迫だった。
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私は当勤めていたスーパーの清掃パートを辞めた。 は兄のオムツを替え、流を裏ごしし、夜はおきに体位交換をする。 自分のなどこの、着も買っていない。 所のディスカウントスーパーで、夜過ぎに貼られる見切り品の半額シールが貼られたもやしやパンを買い、それを啜って命を繋ぐ々。
世は私を「兄いの健気な妹」と呼んだ。 だがその実態は、排泄物の臭いと湿気で畳が腐りかけた畳半に、自らのを贄として捧げる終刑にならなかった。
そのの午、私は兄が肌さず着ていた防寒ジャンパーの裏が、自然に膨らんでいることに気づいた。 ほつれた縫い目。 指を滑り込ませると、綿の奥にい触があった。
引きずりしたのはつのものだった。
つは、見慣れないさな字型の真鍮キー。 もうつは、つ折りにされ、汗で印字がれかけたのレシートだった。
広げた片に目を落とした瞬、私の臓がさくねた。
【JR本 横浜駅 特急券・乗券差額精算】 付は、わずかの曜。 発券刻は午分。
がわからなかった。 の曜、兄はベッドに横たわり、井を見つめて微だにしなかったはずだ。 私が買いしにていたを除いては。
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寝たきりの兄のの奥くに、なぜ県の、しかも夜の幹線精算レシートがあるのか。 誰かがポケットに入れた? いや、裏の綿をわざわざ裂いて、内側から縫い直した痕跡がある。 が悪戯で仕込めるような所ではなかった。
胸の奥に、氷の塊を呑み込んだような違が居座った。 私はそのさな鍵とレシートを、自分のエプロンの奥くに隠した。
その夜から、私は眠れなくなった。
隣の部から聞こえる、兄の規則正しい寝息。 、私をさせていたその音が、得体のれない械の駆音のようにに障った。
そして、運命の曜の夜が訪れた。
午を回った頃、隣のふすまが、ミリ単位で擦れる微かな音がした。 私は息を止め、いせんべい布団ので目だけをいた。
畳を踏む音。 それは、を引きずる自由な音ではなかった。 の軋みを完全に把握したが、荷を逃がしながら歩く、完璧な忍びだった。
男は玄関へ向かい、音もてずに鍵をけた。 に置かれていたはずの兄の用のスニーカーが、のに消えていく。
私はね起き、擦り切れたカーディガンを羽織ると、素のままスリッパを突っかけて廊へた。
はたいがっていた。 灯がまばらな公団の階段を、が音もなくりていく。
その取りは、階段のすりに度も触れることなく、驚くほど軽やかだった。