"七年消えた母と五千万の温室" 第2話
夕方半。 実の引き戸をけると、廊の奥から汁の甘い匂いが漂ってきた。
「ただいま戻りました」
靴を脱ぎながら声をかけると、台所からパタパタと気よいスリッパの音がづいてきた。
「おかえりなさい、栞ちゃん。寒かったでしょう。今はね、あなたの好きなお肉とじゃがの煮物よ」
柄のエプロンをつけた雅美が、満面の笑みで迎えてくれる。 その首元には、仕てのいい質なシルクのスカーフ。 そして、首には——いつものように、幅の広い茶い牛革のブレスレットが巻かれていた。 あの歪な傷の痕を、すっぽりと覆い隠すための特注品だ。
「……ありがとうございます、雅美さん」
私は線をその革バンドから素く逸らし、元だけに笑みを貼り付けた。
居に入ると、父の昭彦が座卓のにあぐらをかき、酌でビールをんでいた。 ここ数で髪が急激に増えた父は、元で務を営んでいる。 かつては借まみれで倒産寸だったその会社も、今では公共事をに請け負うほどに成し、来週末には内の名士たちを招いて「社就任周兼、還暦祝い」の宴会がかれる予定だった。
「栞か。役所の臨の仕事はどうだ。おもそろそろ京の会社に戻るか、こっちでを固めるか決めたらどうだ」
広告
父は湯みにビールを注ぎしながら、ぶっきらぼうに言った。 その顔には、妻に逃げられた運を背負いながらも、実直にき抜いてきた男特の、くたびれた自尊が滲んでいる。
「そう急かさないでよ、お父さん。栞ちゃんがにいてくれるだけで、私は本当に助かっているんだから」
雅美がきな平皿に盛られた肉じゃがを運んできて、私のに置いた。 湯気がちる。 牛肉の脂の匂いと、甘辛い醤油のり。 それは、失踪した母が作っていた付けと、寸分違わず同じだった。
母の帳からレシピを盗み、かけて「槻の」を完璧に再現してみせた女。 所の々はみんな、雅美を聖女のように称賛している。
『あんなな奥さんに捨てられた昭彦さんを、雅美さんが救ってくれた』 『登紀子さんは昔から派好きで、最は男とを持って逃げただなんて、本当に昭彦さんが憫だった』 『妻に入った雅美さんが、実の母親以に栞ちゃんをがってくれて、槻は本当に運が良かったね』
母の失踪以、母の実である祖父母のには連嫌がらせの話が鳴り響き、耐えかねた祖父母は県へ引っ越した末、数に相次いで病した。 母は、名誉すらも奪われ、棒猫の濡れを着せられたまま、世から葬りられたのだ。
広告
私は割り箸を割り、肉じゃがのさな参をに運んだ。 がしない。砂を噛んでいるようだった。
「……そういえばね、お父さん」
私はわざと平淡な、雑談のトーンを作ってをいた。 線は、皿ののじゃがいもに落としたままだ。
「今、役所の文庫で、峡の解体に伴う古い記録の理を伝ったの」
向かいでビールを煽っていた父の喉仏が、ピクリと止まった。
雅美が、根の浅漬けを取り分けていた菜箸を、鉢ので静止させる。
「へえ……峡のね」 雅美の声は、驚くほど普段通りだった。 しかし、その瞳は笑っていなかった。黒目が、私の表の変化を値踏みするように細められている。
「昔のアナログカメラの映像を、最の材で解像度スキャンする作業なんだけどね」 私はゆっくりと顔をげ、雅美の目をまっすぐに見つめた。 「すごく鮮になるのね。の、あのの夜の通過両の記録も残っていて。運転席の元まで、指紋が見えそうなくらい、くっきりと拡できるのよ」
カツン。
乾いた音が響いた。 雅美の持っていた菜箸の先が、陶器の鉢の縁にく当たった音だった。
雅美は瞬だけ元を直させ、それから、ふわりと能面のような笑みを浮かべた。
「そう……今の械は、本当に恐ろしいわね。昔の埃をかぶったようなものまで、わざわざ掘り返すなんて」
彼女はそう言いながら、の首をそっと引き、ダイニングテーブルのへと滑り込ませた。 ブレスレットの位置を直す、微かな擦れの音が聞こえる。