"月8万円の町工場社長" 第1話
俺の名は浦琢磨、34歳。京・田区の宅に挟まれた細いで、「浦製作所」というさな町を経営している。社という肩だけ聞けばしは派にえるかもしれないが、はの軽トラックだけ、まいは歩いて5分の古い1DKで、俺自の役員報酬は8万円しかなかった。
朝は6にのシャッターをける。になると取っは素で触るのがつらいほどたく、照をつけると、油と切削液が混じった独特の匂いがゆっくりとへ入ってくる。俺は子どもの頃からこの匂いをっていて、学帰りには父の仕事を邪魔しないよう、の隅で宿題をしていた。
浦製作所を父の正が始めたのは38だった。6メートルほどの細い建物に、旋盤、フライス盤、マシニングセンターが肩を寄せるように並び、壁には古い具会社のカレンダーや加条件をいたが今でも残っている。俺たちが作るのは、医療器や検査装置などの内部で使われるさな属部品で、完成品になれば浦製作所の名などどこにも残らない。
父はよく言っていた。
「俺たちが削ってるのは鉄じゃねえ。信用だ」
子どもの頃は、何を格好つけているのだろうとっていた。けれど自分が社になってから、その言葉のさがしずつ分かるようになった。
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図面通りの部品を100個納めても褒められることはないが、たった1個寸法をせば、その1個で何分もの信用が消える世界だった。
7になると、61歳の田辺夫さんが自転でやって来る。父の代から勤めている職で、背はくないのにだけが異様にきく、械のスイッチを入れると最初の数分は必ず黙って音を聞く。「今の嫌を見てんだよ」と本は言うが、古い旋盤のわずかな異音まで聞き分けるあのは、俺にはまだ真似できなかった。
続いて45歳の健吾さんが入り、最に24歳の島蓮が寝癖をつけたまま駆け込んでくる。島は5目の若で、ようやく簡単な加をで任せられるようになったところだった。8には54歳の佐々美代子さんが事務所へ入り、気の消し忘れを見つけるたびに、「社、気代も材料費ですよ」と俺を叱る。
従業員は4しかいない。それでも4には、それぞれのに活があった。田辺さんの妻は3に乳がんの術を受けて今も通院を続け、さんにはと学の子どもがいる。島には専学代の奨学返済が残り、美代子さんは暮らしをしながら千葉にいる母親の介護へに何度も通っていた。
父ので働いていた頃、俺は料とは毎決まったに振り込まれるものだとっていた。
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しかし社になれば、その「当たり」を作るために、材料代、具代、注費、気代、返済を順番に並べ、円単位でをかさなければならない。売がいでも入が2か先なら、目のの通帳には何もないということさえ珍しくなかった。
そして俺には、個名義で800万円の借があった。
遊びに使ったではない。級も計も持っていないし、旅など最にったのがいつだったかもいせない。それでも通帳には毎返済額が引かれ、借入残を見るたびに、自分がまともな経営者ではないと言われているような気分になった。
その事をっているのは、美代子さんだけだった。帳簿を扱うだから隠しようがなかっただけで、田辺さんたちには度も話していない。俺は自分の役員報酬を8万円までげ、昼はおにぎり2個、夜は卵かけご飯かいうどんで済ませながら、借をしずつ返していた。
そんな俺のところへ、ある夕方、父の古いである沢渡隆司さんが訪ねてきた。
68歳になる沢渡さんは、昔は具商社の営業をしており、浦製作所が支払いに困ったには父を何度も助けてくれただった。事務所のパイプ子へ座った沢渡さんは、鞄から枚の写真と釣をし、「琢磨君、度だけ会ってくれないか」
と俺のへ置いた。
写真に写っていたのは、淡いの着物を着た29歳の女性だった。