"一枚のタダ券から始まった家族" 第1話
「この券で……唐揚げを1個だけ、もらえませんか」
その声が聞こえたのは、3の終わりとはえないほどたいが駅を叩いていた夜だった。川健が先の簾をそうとして振り返ると、軒に若い女がっていた。傘も差していなかったらしく、肩まで伸びた髪からが滴り、その隣には5歳くらいの女の子が母親のを握ったまま、刻みに震えていた。
女が差ししたのは、濡れて角のふやけたさなだった。そこには赤い文字で「唐揚げ1個サービス」と印刷されているが、それは本来、唐揚げ定を注文した客に個追加するための券であって、それだけを無料でもらえる券ではない。健はを見たあと、女の頬が自然なほど痩せていることに気づき、さらに女の子の濡れた運靴へ線を落とした。
「入んな」
健はそれだけ言うと、しかけていた簾を元に戻した。女はが分からなかったように目を瞬かせたが、健が扉をきくけると、やがて子どものを引きながらおそるおそる内へ入った。
駅の《川堂》は、健が28歳のにいたさな定だった。から35が経ち、壁に貼られた品きは何度もき直され、製のカウンターにはの油と洗剤で磨かれた独特の艶がている。かつては帰りの若者や学で夜まで賑わっていたが、町の齢化がんだ今、夕方を過ぎると客席が空いたままのも珍しくなかった。
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厨では、妻の君子が翌の仕込みを終えようとしていた。健のろから入ってきた母娘を見るなり、君子は「あらまあ」と声をげ、すぐに奥の洗面所からきなタオルを2枚持ってきた。女の子の髪を包むように拭きながら顔を覗き込んだ瞬、君子のが度だけ止まった。
「……歩美ちゃん?」
女がきょとんとして顔をげると、君子は自分でも驚いたようにを押さえた。母親が怪訝そうな顔をしたため、君子は慌てて「ごめんなさいね、昔っていた子にし似ていて」と取り繕い、女の肩へ乾いたタオルを掛け直した。
「お名は?」
「もりした、あゆみ。5さい」
女が答えると、君子はほんの瞬、泣きそうな顔をした。しかしすぐにいつもの笑顔へ戻り、「そう、歩美ちゃんっていうの」と頷いた。
母親は森苗と名乗った。苗は借りたタオルをにしたまま子へ座ろうとせず、濡れた券を握りしめながら何度もをげていた。「すみません、私たち、お客じゃないんです」と言い、財布にはほとんどおがないことまで正直に話した。
「この子に、唐揚げをだけでもべさせたくて……。でも、やっぱり非常識ですよね。すみませんでした」
に返ったように苗が歩美のを取った。その顔には、自分が何をしようとしたのか急に恥ずかしくなった特の赤みが浮かび、へ向かおうとするも震えていた。
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ところが、ちがりかけた苗のへ、健がきな盆を置いた。炊きたてのい飯が入った茶碗が2つ、豆腐とわかめの噌汁が2杯、菜の浅漬けまで添えられている。さらに健は厨へ戻り、揚げたての唐揚げがのように積まれた皿を運んできた。
姜と醤油のりが、え切った母娘のに広がった。歩美の目がきくなったが、隣の苗を見ると、べたいとは言えないらしく唇を噛んでいる。苗も皿を見たまま首を横に振った。
「こんなに……いただけません。私、唐揚げを1個だけお願いしたんです」
「今はで客が来なかった。どうせ残る」
健は笑いもせず、ぶっきらぼうにそう言った。君子は夫の横顔を見てさく笑い、「このはね、こういう言い方しかできないのよ」と付け加えた。
「いっぱいべな」
その言葉を聞いた瞬、歩美の顔がるくなった。苗はしばらく俯いていたが、やがてさく「ありがとうございます」と言い、娘と緒にをわせた。
歩美は最初の唐揚げをへ入れると、さに頬を膨らませながら笑った。「おいしい」と何度も言い、今度は半分に割った唐揚げを母親の皿へ置いた。苗もべた途端、箸を止めた。
「……この」
その呟きを、健だけが聞いていた。
歩美はよほど空腹だったのだろう。