"消印は失踪の3日後" 第6話
最初から裏へくつもりがなかったのだ。
樺園の旧館は、の斜面に沿って建つ3階建ての建物だった。1999の改修で部分が取り壊され、現は倉庫と資料だけが残っている。
かつての礼拝は1階の端にあった。施設は宗教法と関係がなかったが、が結核療養所だったため、さな祈りの部が残されていたという。
改修の図面を見ると、礼拝のには用の配管を通す空があった。その先は施設裏の林にある管理へ続いていた。
野寺たちが現を調べると、板の部に交換された跡が見つかった。板をしたには狭い通があり、錆びた属製の梯子が斜面のへ延びていた。
通の壁には、乾いた褐の染みが残っていた。鑑定の結果、の血液であり、2の女性のDNAが混じっていた。
片方はガーゼに付着していた真紀のものと致した。もう片方の物は特定できなかった。
管理のからは、腐したカセットテープと、女性用の腕計が見つかった。計の裏には《E・Y》と刻まれている。
岸絵里のものと考えられた。
テープは部しか再できなかったが、2の女性の会話が残っていた。
《歩ける?》
《を切っただけ。沢さんこそ、腕が……》
《丈夫。ここをたら、町の警察にはかない。県警までく》
真紀と絵里は礼拝のを通り、樺園から脱していた。
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血痕は襲われた証拠ではなく、狭い通で負ったけがによるものだった。
2がどこへ向かったかは、別の記録から判した。
樺園から7キロれた無駅で、1121の午1018分に岐阜方面きの切符が2枚販売されていた。窓係の誌には「若い女性2、片方は腕を負傷」と記されていた。
信吾が裏へ戻ったときには、2はすでに列に乗っていた。
「母さんは、無事に逃げたんですね」
拓が言うと、野寺はうなずいた。
「なくとも、1121の夜までは」
2は翌朝、岐阜内の聞社を訪れていた。当の受付記録に、沢真紀と岸絵里の名が残っていた。
しかし担当記者との面会はわれなかった。約束していた記者が、そのの朝に突然、別の支局へ異させられていたためだ。
任の記者は話を聞いたものの、資料を預かることを拒んだ。
「町役と施設が、くなったのを受け取っているという話だけでは、裏づけがりないと言われたそうです」
野寺は当の取材メモを見せた。
そこには真紀の言葉が記録されていた。
《正はだけではありません。くなったの名で、別のが活しています》
樺園は、寄りのない入居者がくなると、戸籍の届をさず、通帳と印鑑を保管していた。その份は、借や歴などの事で本名を使えない者へ渡されていた。
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使用料は毎支払われ、その部が町役の協力者や施設に流れていた。
真紀が郵便袋に入れた6通の封は、份を使われていた者に宛てられたものだった。には通だけでなく、運転免許証の更案内や融関の本確認類も含まれていた。
留の配達先となっていた空きは、者の名義で座を設する際に使われる偽の所だった。
拓は母から届いたと考えられる賀状を、代順に机へ並べた。1998は岐阜県、1999は富県、2000から2002は野県、そのは潟県とへ移っている。
消印の位置を図で結ぶと、へ向かう1本の線になった。
母と絵里は、を隠しながら移していたのではないか。
警察は差の所をつずつ調べた。くは空きや閉鎖された施設だったが、2003の賀状に使われた潟県岡の所では、当「佐々姉妹」と名乗る2の女性が暮らしていたという証言が得られた。
所のが保管していた町内会の写真には、真紀とよく似た女性が写っていた。隣にっている細の女性は、岸絵里の運転免許証の写真と致した。
真紀は失踪から7にもきていた。
ところが2005を境に、賀状の跡がわずかに変わっていた。
拓はで偽造署名を調べる際に、圧や文字の癖を見る訓練を受けていた。
最初の8枚では「元」