"沈黙のピアニストは厨房に潜む" 第12話
――の音を、みんなに届けよう。
(奏……私、もう度弾いてみるね。私の音を待ってくれているたちのために)
ので親友に語りかけながら、はゆっくりと顔をげた。 涙の跡が残る頬をそっと拭い、真っ直ぐに柳原たちを見つめ返す。
「……はい。私の音でよければ、ぜひ弾かせてください」
澄んだ声で答えた彼女の顔には、ぶりとなる、柔らかくれやかな笑顔が咲いていた。 その瞬、フロアは再び温かな拍と歓声に包まれた。 窓のでは、都の夜景が宝のようにキラキラと瞬いていた。
再び鍵盤へと向き直るの背は、もう迷いのない、の気いピアニストの姿そのものだった。
あの奇跡の夜から、季節がつ巡った。
層階のレストラン「フェルマータ」には、今夜もよいピアノの旋律が豊かに響き渡っていた。 央のグランドピアノに向かい、柔らかな沢を放つドレスにを包んで鍵盤を奏でているのは、だった。
厨の奥で息を潜め、うつむきがちにグラスを磨いていた彼女の姿は、もうどこにもない。 彼女の指先から紡がれる温かな音は、訪れる客たちのを優しく解きほぐし、にはいつも穏やかな笑顔が溢れるようになっていた。
曲の、鍵盤からふっとをしたのもとへ、の男性が静かに歩み寄ってきた。
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「さん、そろそろ休憩に入ってください。温かい茶を淹れさせましたから、控でし休むといい」
サービスマネージャーの宮だった。 かつて彼女を酷に切り捨てたその声には、もう棘など微もない。 そこにあるのは、を共に支えるかけがえのない仲への、確かな信頼と敬だった。
「ありがとうございます、宮さん」
が微笑んでちがると、すれ違う川や岡本たちも、親しげに労いの言葉をかけてくれる。 温かい声に包まれながら、控へと続く静かな廊を歩く。 は自分の両をそっと持ちげ、胸のさで見つめた。
かつて仕事で荒れ果てていた指先は、今では丁寧にケアされ、本来のしなやかさを完全に取り戻していた。
あの夜、恐怖に震えながら踏みした、たった歩。 永に止まっていたののは、再び静かに、力くき始めていたのだ。
奏を失ったしみが、完全に消えることはきっとない。 けれど今は、その痛みも悔すらも抱きしめて、を向いてきていくことができる。
(奏……私、今、すごく幸せだよ)
そっとので呟き、控のドアノブにをかけた、まさにそのだった。
「さん、しおはよろしいかな?」
廊の奥から、支配の柳原がし急いだ取りでづいてきた。 いつも静沈着な柳原にしては珍しく、その声には微かな興奮が滲んでいる。
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彼はのにつと、質で作られた通のい封筒を差しした。
「支配……これは?」
「実は先ほど、君宛てに正式なオファーの連絡が入ってね。君の演奏を聴いた音楽関係者が、ぜひ次回の特別公演に、ゲストピアニストとして招きたいと言っているんだ。……所は、あのホールだよ」
柳原のから告げられたその名に、はさく息を呑んだ。 それはかつて、音代に奏と共に「いつかでとう」と約束していた、都内で最も格式いの台だった。
「私に……務まるでしょうか……」
封筒を見つめたまま、はぽつりと呟いた。 かつての彼女なら、プレッシャーと罪悪でがすくんでしまっていたかもしれない。 けれど、柳原は優しく目を細め、力く頷いた。
「君の音が、彼らのをかしたんだ。自信を持ちなさい」
その言葉に、はゆっくりと顔をげた。 胸の奥で、『ってきなよ!』と背を力いっぱいに押してくれる、奏のるい声が聞こえた気がした。
は封筒を両でしっかりと受け止めると、真っ直ぐに柳原を見つめ返した。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
迷いのない澄んだ声に、柳原もまた嬉しそうに頷いた。
数。 ディナー営業が終わり、内の照がし落とされた静かなフロア。 は誰もいなくなったピアノベンチに腰をろし、そっと鍵盤のに指を添えた。
きな窓の向こうには、宝を散りばめたような都の夜景がどこまでも広がっている。
しみに暮れ、ち止まっていたい夜は、もうけたのだ。
これからは、切な親友との約束を胸に抱いて、もっとくまで歩いていける。
静寂の、の指先から、透で温かい音が夜の空気へとこぼれ落ちた。 紡ぎされるのは、未来へと続く希望の音。 に満ちた彼女の音楽は、これからもずっと、誰かのを優しく照らし続けていく。