"葬儀代10万円を拒んだ叔父――17年後、空の封筒を持って私は戻った" 第3話
母が残した菓子缶
菓子缶のふたは赤く錆び、何もけられていないように固かった。ドライバーを差し込んで持ちげると、から借用、領収証、産の査定が束になって現れた。
番の借用には、貸主として黒川健造の会社名が記されていた。
父がくなったあと、母が活費と私の治療費を面するために借りただった。数分の領収証を付順に並べると、母は毎ほとんど遅れずに返済している。それなのに、残欄の元はほとんど減っていなかった。
さらにからてきたのは、かつて私たちがんでいたの権利関係を示す類だった。健造は返済が遅れたことを理由にと建物を相よりはるかにい額で引き取り、そのも母へ返済を求め続けていた。
領収証の裏には、母のさな字で支払と担当者の名がかれていた。赤い丸のついたは、私がで入院した期となっている。あの頃、母は病院の売で何も買わず、筒のお茶だけをんでいた。節約していたのではない。健造への支払いを止めれば、む所まで失うと脅されていたのだ。
私は母の荒れた指先をいした。夜に帰宅し、眠っている私の制を繕っていた背も、欲がないと言って夕を私に譲った顔も、すべてが1本の線でつながった。
広告
母は病気だけに負けたのではない。族を名乗る男に、何も追い詰められていたのだ。
りのまま健造の敷へ向かおうとした、玄関ので佐藤さんが私を止めた。菓子缶を抱えた私の顔を見ると、事を聞くに首を横に振った。
「今のおさんが乗り込んでも、また傷つけられるだけだ。その類は捨てるな。りよりく残るものを、元に持っておけ」
私は唇をかみ、類を透な袋へ入れ直した。すぐに殴り返すことはできなくても、証拠だけは健造に渡さない。それが、15歳の私にできる最初の抵抗だった。
佐藤さんは翌朝、役所くので全ページを複写し、原本と控えを別々の封筒へ入れてくれた。「取りに来るがいるかもしれない。原本を持っていることは誰にも話すな」。私は母の類を菓子缶へ戻し、のに隠して眠った。
翌、の職員と児童相談所の担当者が来た。父方の親族には受け入れのがあるか確認されたが、健造をはじめ、全員が断ったという。私は県庁所にある児童養護施設で暮らしながら、学を卒業することになった。
担当者は私の話を急かさず、学を辞める必はないと説してくれた。私はそこで初めて、「へきたい」とにした。健造のでは恥ずかしくて言えなかった希望だった。
広告
佐藤さんは隣で何度も頷き、「この子は働くに、まだ勉するです」と職員へをげてくれた。
発の朝、佐藤さんはい回収作業にていて会えなかった。私はいをき、隣の郵便受けへ入れた。
――佐藤さんへ。
10万円のおかげで、母をきちんと見送れました。
今の僕には何もありません。でも、必ず勉して働きます。
いつかこの10万円を何万倍にもして返しに来ます。
施設の職員が母の骨壺をへ運んでくれた。私は菓子缶と空の封筒だけは自分の鞄に入れた。バスが町をれる、くの丘に健造のきな根が見えた。
「奪われる側のままでは終わらない」
声にした言葉は震えていた。それでも、もう座していたの震えとは違った。
私が座席ので握っていたのは、復讐だけではない。血のつながらないの男が教えてくれた、を救うの使い方だった。