"金曜日の一冊" 第1話
藤原千紘がその古いマンションへ引っ越してきたのは、33歳になったばかりの4だった。駅から徒歩11分、築28の鉄筋コンクリート造で、壁には細いひびがあり、エントランスのオートロックもし反応が鈍かったが、向きの部に午までが入ることだけは気に入っていた。
婚してから2が経っていた。元夫の慎吾とは6暮らしたが、最の1は夫婦というより、互いの嫌を損ねないよう活する同居のようになっていた。
きな原因はだった。慎吾は「夫婦なんだから、いちいち分ける必はない」と言いながら千紘の貯を何度か無断で使い、最には父から譲られた古いフィルムカメラまで売って借の穴埋めに充てた。
それ以来、千紘はと物を共することが苦になった。傘を貸すのも、仕事仲へ本を貸すのも、蔵庫のみ物を「ちょうだい」と言われることさえ、以よりしだけ嫌になった。
305号へ引っ越して3目、会社から帰ってきた千紘は隣の307号のにさな箱が置かれていることに気づいた。箱の面にはきの札があり、《読みたい方、ご自由に。読み終わったら戻していただければ嬉しいです》といてあった。
には冊だけ文庫本が入っていた。何冊も並べるのではなく、たった冊だけというのが妙に気になったが、千紘はそのまま部へ入った。
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翌週の曜になると、本が変わっていた。さらに次の曜にも別の本が入っており、どうやら307号のは毎週冊だけ選んで箱へ置いているらしい。
隣の顔を初めて見たのは5の初めだった。エレベーターで緒になった男性は36歳くらいで、紺の作業用ジャケットを着ており、に具箱、にはコンビニの袋を持っていた。
「305号の方ですよね。桐です」
男は軽くをげた。千紘も「藤原です」と名乗ったが、彼は箱について何も言わず、そのまま3階で「お疲れさまでした」とだけ言って別れた。
から管理に聞いた話では、桐直は所の計で働いているらしい。正確には販売員ではなく、古い腕計や置き計を修理する職だという。
その週の曜、箱には冊の恋説が入っていた。千紘はタイトルをっており、以からし気になっていたので、5分ほど迷った末に初めて本を持ち帰った。
曜の夜には読み終えたが、結末が気に入らなかった。恋を傷つけるのが怖いと言いながら最まで何も決めずに逃げ続ける主公に腹がち、千紘はわず付箋へ《この主公、結局ずっと逃げているだけじゃないですか》といた。
いてからに返った。借りた本へ勝にを挟むなど余計なことだとったが、本には貼らず、最終ページのへそっと挟んで箱へ戻した。
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翌曜。
仕事から帰った千紘は、しい本を確認するつもりで箱をけた。しかしにあったのは先週と同じ説だった。
自分が挟んだ黄い付箋も残っている。
そのに、青い付箋が枚増えていた。
《逃げることと、諦めることは同じでしょうか。》
千紘は廊にったまま、わず307号のドアを見た。内からは何の音も聞こえなかったが、自分の独り言だとっていた文に返事が来たことが、妙に笑しくてし笑った。
翌、千紘はしい黄い付箋を挟んだ。
《なくとも、何も言わずにいなくなるのは同じだといます。》
その週から、曜の箱はただの貸本箱ではなくなった。
千紘と直は、顔をわせれば普通に挨拶をした。それなのに本の話だけはなぜかではせず、曜になると文庫本のへ付箋を挟んで返事をするという、し奇妙な習慣が続いた。
直が置く本には定のジャンルがなかった。推理説の翌週に旅記、その次には古いエッセイが入り、ある週には昆虫写真集まで置かれていた。
《これはさすがに誰向けですか。》
千紘がくと、翌週の青い付箋には《305号の方が何でも読むのか試しました》とあった。千紘は《実験に使わないでください》と返し、それを読んだらしい直は数、エレベーターで会ったにしだけ笑った。