"家族席から外された弟" 第6話
貯は澪の学費用を除けば百万円ほどで、設備を借りるだけでもりない。私は以の会社の同僚へ連絡し、病院厨の勤務を紹介してもらった。午から正午まで、週。はくないが、社会保険に入り、勤務が確だった。
午はの創業相談へ通った。相談員へ「弁当をやりたい」と言うと、すぐ舗を借りるのは危険だと止められた。私は自分の得分野を棚卸しした。量調理、塩分調、欲が落ちた向けの献、配送から逆算した品質管理。華やかな駅ビルより、宅療養の庭へ量の事を届ける方が経験をかせると分かった。
ただし個宅への治療販売には、誤解を招かない表示や栄養計算、営業許を得た厨が必になる。私は管理栄養士ではない。そこで、会社代の同僚で現はフリーの管理栄養士・野へ相談した。
「病気が治る弁当とは絶対に言わない。医師の指示があるは個別確認が必。最初は般向けの、べやすい量惣菜から始めた方がいい」
は厳しかったが、私の柚子鶏そぼろをべて言った。「これはがいんじゃない。りで満できるように作ってある。誰のために考えたの?」
私は妻のことを話した。は慰めず、「それなら、しい物語を商品名にしない方がいい。
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買うはあなたのいではなく、自分の今をべるから」と言った。
その言葉で、私は妻の料理を守ることと、妻を板に使うことの違いに気づいた。兄がしたことへのりから、私も由佳の闘病を売り文句にしようとしていた。
私は週回、許のある共同厨を借り、《さな晩ごはん》という予約制の惣菜セットをだけ作り始めた。品で千百円。くはないが、材料費、厨使用料、の監修料、自分の労働を計算すると、それ以にはできなかった。
最初の注文はだった。売から費用を引けば、元に残ったのは千円にもならない。それでも私は、その千円がぶりに自分で値段を決めて得ただとった。
《よし》の売はすぐに崩壊したわけではなかった。兄は業務用総菜を使い、経験のある久美子を現責任者にして配達を続けた。私がいなければ翌にも潰れるという像は、私自のいがりでもあった。
しかしかすると、利益率のい介護施設件との契約を兄が打ち切った。駅ビルへの再申請に備え、若い世代向けの商品へ集すると説したらしい。く付きった施設のつから、私の《さな晩ごはん》へ問いわせが来た。
私はすぐ契約しなかった。元勤務先の顧客を奪ったと言われる能性を弁護士へ相談し、施設側から契約終通と規見積依頼を面でもらった。
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さらに、しか作れない自分に毎は無理だと正直に伝えた。
施設の担当者は、毎ではなく、欲の落ちた入居者向けに週回を頼みたいと言った。と嚥状態の確認範囲を決め、厨の利用を増やした。派な成功ではなかったが、半には病院勤務とわせて、以の帳簿の与をし回る収入になった。
方、父とは会っていなかった。母からは、父が私の名をにするたび血圧ががると聞かされていた。澪だけはに度、祖父母のへ顔をした。私は娘を伝言役にしないと決め、の話を持ち帰らなくていいと伝えた。
の朝、澪から学へく途に話が来た。祖父がので転び、救急で運ばれたという。私は病院へ向かった。検査の結果、骨折はなかったが、父は肺炎を起こしかけており入院になった。
病で、父は母を帰らせ、私とになった。言葉を探す父を急かさず待つと、分くかけて言った。
「、雅に、任せた。違い、だったか」
私は答えに迷った。「兄さんに経営を任せたことより、任せたに何も確かめなかったことが問題だったとう」
父は頷き、でベッド柵を握った。「章平なら、、守る。った」
「守ると言った覚えはないよ」
「言わなくても、やる」
それは父なりの信頼だったのだろう。
だが、信頼という名で責任を押しつけられた側には、荷でしかないこともある。