"20年後、坊ちゃんは帰ってきた" 第1話
「千鶴子さん……優を、お願い」
鳴が敷の窓を震わせた夜、の奥のには薬品の匂いが満ちていた。広い寝の央で、グループ会夫の恵子は、青い顔のまま細い呼吸を繰り返していた。
まだ42歳だった。3かまで慈善事や会社の式典に姿を見せ、誰に対しても穏やかに笑っていた女性が、突然見つかった病によって見るもなく痩せていた。
ベッドの傍らには、35歳の政婦・千鶴子が膝をついていた。千鶴子が握っている恵子のは、しずつ体温を失っていた。
「奥様、ここにおります。何もお話しにならなくて結構ですから」
千鶴子がそう言うと、恵子は々しく首を振った。そして残された力を振り絞るように、千鶴子の首を握った。
「あのは……私がぬのを、待っていたのよ」
千鶴子は息を呑んだ。恵子はこれまで夫である隆について、使用ので平をにしたことが度もなかったからだ。
隆は巨企業・グループを率いる会だった。仕事に厳しく庭では寡黙な男だと千鶴子はっていたが、恵子の目に浮かんでいたものは、い誰にも言えなかった絶望だった。
「優を……あのたちから守って」
恵子がにしたのは、8歳になる息子の名だった。そのだけ、消えかけていた瞳に母親のが戻った。
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「千鶴子さん。あなたが、あの子のお母さんになってあげて」
布団ので恵子のがいた。千鶴子がそっと布団を持ちげると、胸元から古びた革張りの記帳が現れた。
表には細かなひびが入り、角も擦り切れていた。しかし恵子は、それを何も肌さず持っていたらしい。
「これを……あなたに」
「奥様、これは……」
「最のページだけは、優がになるまでけないで。絶対に」
恵子は「絶対に」という言葉を度繰り返した。
千鶴子には理由が分からなかった。それでも、恵子が命の最に託した約束を破ることなど考えられなかった。
「承いたしました」
千鶴子が記帳を胸に抱くと、恵子は微かに笑った。
「私の、切な千鶴子さん……ありがとう」
その直、握られていたから力が消えた。
医療器の音が本のい子音へ変わり、千鶴子は恵子のを握ったまま声を殺して泣いた。胸に抱いた記帳の革表が、落ちる涙で濡れていった。
千鶴子にとって、恵子は単なる雇い主ではなかった。
千鶴子の母は、で30働いた料理だった。幼い千鶴子も母について敷へ入りし、10歳を過ぎる頃には台所で野菜の皮を剥き、15歳になる頃には朝の配膳を伝っていた。
19歳の、母が病に倒れた。
治療費と葬儀費用だけが残り、千鶴子は学を諦めようとしていた。
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その、を差し伸べたのが嫁いできたばかりの恵子だった。
「学をやめては駄目よ。あなたは勉して、自分のを自分で選べるになりなさい」
恵子は夜学の学費まで援助した。
千鶴子は昼は敷で働き、夜は学へ通った。眠気で文字が滲んでも机に向かい続け、4に卒業証をにした。
「奥様、私、卒業できました」
そう報告した、恵子は初めて千鶴子を抱き締めてくれた。
「よく頑張ったわね、千鶴子さん」
あのから千鶴子にとって、恵子は姉のようなになった。
だからこそ、そのが最に残した「優を守って」という頼みを、命に代えても果たすつもりだった。
ところが、葬儀を終えた数だった。
弔問客が途切れた廊で、千鶴子は偶然、隆が話をしている声を聞いた。
「ああ。もうしだけ待ってくれ。これで邪魔をする者はいなくなった」
千鶴子のが止まった。
「子供のことも君の言う通りにする。全部任せるよ」
妻をくした男の声には、しみがなかった。
むしろ、く待っていたものがようやくに入ったような堵さえ滲んでいた。
千鶴子の胸ので、恵子の最の言葉が蘇った。
――あのは、私がぬのを待っていたのよ。
その晩、千鶴子は誰もいなくなった恵子の部で遺品を理していた。
廊から、さな音が聞こえた。
振り返ると、優がっていた。泣き腫らした目を伏せ、母親の部に入ることもできず、細い肩を震わせていた。