みかん小説
本棚

"七年目の爪痕" 第3話

俊介は居で額を畳に擦り付け、涙を流して頼み込んできた。

その涙を信じた。族を支えることが、妻としての責任だと信じ込んでしまった。

だが、仕事を辞め、敷に閉じ込められた瞬から、真帆の扱いは「する妻」から「無み込み介護士」へと転落した。

俊介は介護の現を決して見ようとしなかった。義父が失禁すれば「汚い」「臭いがスーツにつく」と顔を顰めて階へ逃げ、週末になれば「付きいのゴルフだ」と言って朝からを空けた。

度、様子を見に来る淑恵と由梨は、真帆が作ったの介護を見ては「こんなそうなものをべさせるなんて虐待じゃないかしら」「お父様が」と文句を並べてるだけ。オムツの替え方ろうとはしなかった。

それでも、真帆が投げさずに踏みとどまれたのは、寝たきりの泰造そのがあったからだ。

泰造は、頑固で気難しい昔気質の職だった。

元でさなを興し、代で敷を建てるまでに会社をきくした男だ。

言葉を失い、かなくなっても、そのだけは澄んでいた。

俊介や淑恵が部に入ってくると、泰造はすっと目を閉じ、い眠りに落ちたふりをした。だが、真帆が体を拭き、擦れの薬を塗り、さく砕いた氷をに含ませると、で真帆の首をそっと握りしめてきた。

広告

その骨ばったの温もりと、申し訳なさに潤む瞳を見るたび、真帆は「このにしてはいけない」とい直したのだ。

「お義父さん……」

真帆は、だらけになった提げバッグを引き寄せた。

俊介たちが適当に放りした荷物のから、これだけは守しなければと胸に抱いて持ちしたものだ。

バッグの底から、冊の分いノートを取りす。

には『介護誌 第72巻』と印字されている。

、毎欠かさずき続けた記録だ。

体温、血圧、分摂取量、薬の、排泄の性状、夜穏状態の無。医師や訪問護師と共するためにき始めた誌は、冊に達していた。

その最のページをいた。

泰造が息を引き取る夜、識が混濁するで真帆が取った最のバイタル記録。

その余に、乱れた跡が残されていた。

真帆の字ではない。

くなる、泰造が震えるにボールペンを握り、真帆の制止を振り切るようにして、が破れるほどの力で擦り付けた文字。

いや、文字というよりは、爪痕のような無骨な線だった。

それだけが、歪んだ枠のに力く刻まれていた。

そのとき、泰造は何かを訴えるように真帆の目を凝し、自分の胸元を指差したのだ。

真帆はそのを理解できぬまま、泰造を取った。

……?」

真帆は、バッグの奥底、内ポケットのさらに裏に指を滑らせた。

広告

指先に、たい触が触れた。

取りしてみると、それは古びた真鍮製の鍵だった。

センチほどの、何の装飾もない無骨な本の鍵。

泰造が息を引き取る数護師が席をしたわずか数分の隙に、泰造が真帆のを固く握り、その掌のに無理やり押し込んできたものだった。

あの、すでに言葉を発せなくなっていた泰造は、真帆の目を焼き尽くすような力差しで見つめ、涙を流しながら、何度も何度もその鍵を真帆の指のに押し戻したのだ。

俊介にも、淑恵にも、決して見せてはならないと本能が告げていたからこそ、真帆は今まで誰にもその鍵のかさなかった。

ピピッ、と静まり返った部に無質な子音が響いた。

ベッドのに投げされていたスマートフォンが、ショートメッセージの受信を告げていた。

俊介からだった。

の昼までに、署名捺印した婚届を川越支の窓に持ってこい。受付に預けておけばいい。応じない万円の切れは取り消し、おを悪の遺棄として庭裁判所に訴える。弁護士費用を払うもない無職のおがどうなるか、よく考えろ』

画面を見つめる真帆の瞳から、が抜け落ちていく。

の遺棄。

度として親のオムツを替えなかった男が、妻に向かって吐きす言葉だった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: