"消えた妻と13本のテープ" 第12話
栞のから力が抜けた。
、欲しかった言葉だった。
母は帰らなかったのではない。
帰れなかった。
自分を残して逃げたのでもない。
自分と緒にきるため、恐ろしい夫へち向かおうとしていた。
栞は帳を胸へ押し当てた。
声を抑えることはできなかった。
幼い頃、授業参観で母を待った。をし、名を呼び続けた夜。父から「おも母親と同じだ」と言われ、何度も自分を責めた。そのすべてが涙になって溢れた。
会にいた者たちは、誰もづかなかった。
易に背を撫でたり、慰めの言葉をかけたりしなかった。
ただ、栞が泣き終わるまで、そこにいた。
へると、島根の夜はえていた。
栞はで、母が見つかった池へ向かった。池の周囲にはしい柵が設置され、岸辺にはさな慰霊碑がっていた。
のが面で揺れていた。
の夜、ここはどれほど暗かったのだろう。母はどれほど怖かったのだろう。
けれど栞は、もう母の最の瞬だけを像するのはやめようとった。
千鶴のは、殺された夜だけではない。
娘の弁当に兎の形の林檎を入れた朝があった。祭りで浴の帯を結んでくれた夜があった。をした栞のを晩握っていた。が好きで、台所ではいつもラジオにわせてさくずさんでいた。
広告
そして最まで、娘ときる未来を諦めていなかった。
栞は母の帳をいた。
「お母さん」
声にして呼んだ。
返事はない。
それでも以のような空虚さはなかった。
「遅くなってごめんね」
が面を渡り、々の葉を揺らした。
「私、分かったよ。お母さんは私を捨てていなかった」
栞はポケットからの指輪を取りした。
母の遺骨とともに池の底から見つかったものだった。傷だらけで部が歪んでいたが、修理で形を戻してもらった。
結婚指輪ではない。
指輪の内側には、さな文字で《CからSへ》と刻まれていた。
千鶴から栞へ。
母が娘へ渡すため、密かに用していたものだった。
栞はその指輪をにはめた。
「私はきるから」
それは母への約束であり、い、母を憎んでしまった自分への許しでもあった。
「今度は、怖いに怖いって言う。誰かが助けを求めていたら、聞こえないふりをしない。お母さんみたいに、何も言えない所へ追い込まれるを、にしない」
翌、栞は県内の女性相談窓で働き始めた。
最初は事務の補助だった。話を受け、相談員へつなぎ、必な資料を揃えるだけの仕事だった。それでも、受話器の向こうで「こんなことを話していいのか分からない」と震える声を聞くたび、栞は必ず答えた。
「話してください。ここでは、あなたの言葉をなかったことにしません」
広告
すぐに救えないもいた。
自宅へ戻ってしまう。夫をかばう。自分が悪いのだと言い張るもいた。
それでも栞は、急かさなかった。
母もきっと、何度も逃げようと考え、そのたびに娘の活や銭の、周囲の目をい、決断できずにいたのだろう。
逃げられないをいと呼ばない。
黙っているには、黙るしかなかった理由がある。
そのことを、栞は母から教えられた。
川井が残したカセットテープは、栞の希望によって町の資料館へ寄贈された。ただし母の名や事件の詳しい記録は、遺族の同がなければ公できない形にした。
最の本だけは元へ残した。
の夜や、が折れそうなに再した。
テープの終わりには、川井が録音を止め忘れたらしく、数分の無音が続いている。その奥から、古いラジオの音がかすかに聞こえる。
女性が、くれたを待つをっていた。
そして曲が終わる直、川井の声がさく入っている。
『もう、帰ってきてもいいんだぞ』
以、その言葉を聞くたびに栞は泣いた。
だが今は違う。
「帰ってきたよ、先」
栞はラジカセへ向かって答える。
「お母さんは、ちゃんと帰ってきました」
かかった。
あまりにも遅い帰宅だった。
それでも千鶴は、噂のの「族を捨てた妻」ではなく、娘を守ろうとしたの母として帰ってきた。
になると、栞は母の墓のそばへ鈴蘭を植えた。
いさなが咲いた朝、彼女は墓へ赤い帳をいて見せた。
がページをめくった。
まるで母が自分ので、く閉ざされていた物語の続きを読んでいるようだった。
栞は指輪に触れ、静かに微笑んだ。
母のを奪った夜は消えない。
の沈黙も、なかったことにはできない。
けれど、真実がらかになったその先には、復讐だけではないが残されていた。
忘れないこと。
黙らないこと。
誰かが消されそうになった、そのの名を呼び続けること。
それこそが、暗い池の底から母が娘へ渡した、最の言葉だった。