"貧乏人と呼ばれた食卓" 第1話
私の名は佐藤真紀子、57歳。夫の隆志と結婚して33になり、男の匠と次男の徹という2の息子を育ててきた。今では2ともをしているため、普段は夫婦2の静かな暮らしだが、息子たちが帰ってくるだけは、昔のようにのがし賑やかになる。
私は裕福な庭で育ったわけではない。3歳のに両親が婚し、母は女つで私を育ててくれたが、活にはいつも余裕がなかった。夕に同じような煮物が何も続くことも珍しくなく、母は私にべさせたあと、自分は「もうべたから」と言って湯だけで済ませることさえあった。
学へ入った頃、その母が病気で期入院することになり、私は児童養護施設で暮らすことになった。母とれることは何より辛かったが、そこで私は、がきいかさいか、卓が豪華か質素かよりも、緒にべるがいることの方がずっと切なのだとった。だから自分が庭を持ったら、子供にはできる限り温かいを作ってやりたいとっていた。
夫の隆志と結婚した頃、私たちにもおはなかった。隆志はさな械部品会社に勤めながら独の準備をしており、男の匠がお腹にいるにい切って会社をちげた。最初の数は売も定せず、夜遅くまで帳簿とにらめっこをする夫の横で、私は広告の裏に計簿をつけていた。
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それでも、議と苦しいとった記憶ばかりではない。休には4で公園へき、おにぎりをべ、には古いワゴンでまでかけた。子供たちが眠ったあと、夫と台所でい缶ビールを半分ずつみながら、「来はもうし楽になるといいね」と笑ったは、今でも私にとって切ないだった。
隆志の会社が軌に乗ったのは、匠が学になるしだった。取引先が増え、従業員もしずつ増え、いつのにか夫は「社」と呼ばれるになっていた。それでも活を急に派に変えることはせず、私たちは以と同じにみ、使える具は修理しながら使い続けた。
「これ、まだ使うの?」
息子たちからそう言われるような器も、私には簡単に捨てられなかった。結婚した頃に2で買った皿や、幼い匠と徹がないお遣いをしって贈ってくれたマグカップには、その品物以の価値がある。私は昔から、値札よりも、そこになったを切にするだった。
匠はそんな庭で真面目に育ち、難関学を卒業すると商社に就職した。方の徹は勉よりスポーツが得で、サッカー推薦で学へみ、卒業はスポーツ用品会社で働いている。性格は対照だったが、私にとってはどちらも自の息子だった。
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匠が25歳になったある、珍しく改まった声で話をしてきた。
「母さん、今度の曜、紹介したいがいるんだ」
その言を聞いた瞬、私はようやくそのが来たのかとった。つい昨までランドセルを背負っていたようにえる息子が、自分のを共にしたいとえる女性を見つけたのだ。嬉しさと同に、どんななのだろうという緊張もしだけ胸に広がった。
曜の午、匠が連れてきたのが美だった。背がく、淡いベージュのワンピースを品に着こなし、玄関へ入るなりくをげた。るく聞き取りやすい声で挨拶する姿を見て、私は最初の数分ですっかりしてしまった。
「初めまして、神美と申します。いつも匠さんにはお世話になっています」
「こちらこそ。匠からあなたの話は聞いているのよ。今は来てくれてありがとう」
「私もずっとお会いしたかったんです」
美はそう言って微笑んだ。嘘のない笑顔に見えたし、匠を見る目からも好がじられたため、私はので「いいを見つけたのね」と息子を褒めていた。
ところが、そのの終わり頃、ほんのさな来事が私の胸に引っかかった。
匠が席をし、夫も会社からの話で庭へただった。私が用したケーキをべた美が、先ほどまでの笑顔をすっと消し、フォークを皿へ置いた。
「これ、どこのおですか?」
「駅のさな菓子さんよ。