"温泉旅行を贈った夫の本当の目的" 第3話
革の仕切りを指先でまさぐる。財布、ハンカチ、の指定席券が入ったパスケース、老鏡……しかし、いつも決まった内ポケットに差し込んであるはずの、あの板状のい触がない。
「嘘……スマートフォンがないわ」
息を呑んでバッグの底までを差し入れたが、応えはない。昨夜、充器に挿したまま、リビングのサイドボードのに置き忘れてきてしまったのだ。
「あらあら、私ったら……いくら浮かれているからって、これじゃあ旅館に到着の連絡もできないじゃない」
私は自分のうっかりした性格にさく苦笑いを浮かべ、そのでくるりと踵を返した。のまではまだ分以の余裕がある。今からで戻れば、分ににうはずだ。
私はボストンバッグを持ち直し、先ほど歩いてきたばかりの朝靄の残る坂を、急ぎでがへと引き返していった。この忘れ物が、私のニのを根底から覆す「運命の引き」になるとは、にもわずに。
急な坂をりきり、がのに戻ってきた、私の呼吸はわずかに乱れていた。い息をえながら、入れのき届いた扉を静かに押しける。
庭の隅には、き父が好んで植えた椿のが、鮮やかな赤いを寒のに咲かせていた。その凛とした佇まいに瞬だけ線を奪われつつ、私は玄関ポーチの御の階段をトントンとがった。
広告
バッグのポケットから真鍮の鍵を取りそうと線を落としながら、何気なくを伸ばして玄関ドアののレバーハンドルにをかけた。その瞬――。
カチャリ。
鍵を差し込むだというのに、指先にみをじることなく、な製ドアが内側へと数センチ、吸い込まれるように音もなくスッといたのだ。
(えっ……? 鍵が、いている……?)
私の指先が、凍りついたようにドアノブので止まった。
博幸さんは、神経質なまでに用い男だった。私が所のゴミ集積所へくだけのわずか数分のであっても、必ず玄関の内鍵を厳に施錠し、チェーンまでかけるのがの染み付いた習慣だった。私がをてから、まだ分も経っていない。彼が鍵をかけ忘れて度寝に戻るなど、ニの結婚活ので度たりとして起きたことのない異常事態だった。
棒だろうか。それとも、博幸さんのに何か急病でも起きたのだろうか。
最悪の事態が脳裏をよぎり、私の臓がトクンと嫌なね方をした。夫を驚かせないよう、そしてもし審者だったに刺激しないよう、私は息を殺し、物音をてずにゆっくりとドアを引きけた。
にを踏み入れた瞬、私の線はがり框の端に釘付けになった。
そこには、見慣れた博幸さんの黒い革靴のすぐ隣に、鮮烈なチェリーピンクのエナメルパンプスが、これ見よがしに脱ぎ捨てられていたのだ。
広告
細くいヒール、の品ぶった甘ったるい匂いが、がの清潔な玄関の空気を々しく汚していた。
(女物の靴……? どうして……?)
考が麻痺し、元から気がいがってくる。
その、暗い廊の奥、枚の引き戸で仕切られたリビングの方から、男女の話し声が漏れ聞こえてきた。それは忍びでづく私のに、恐ろしいほどの鮮さで突き刺さってきた。
「――あっはは! 本当にてったんだ! 最!」
甲く、甘ったるく、そして品な響きを帯びた若い女の笑い声。
それに続くようにして響いたのは、私がニ、度たりともにしたことのないような、卑た歓に満ちた男の濁った声だった。紛れもない、私の夫・博幸の声だった。
「ああ、ったよ。駅の通りを歩いていく抜けなろ姿を、階の窓からしっかり確認したさ。これでまで、あの鬼の顔を見ずに済む。やっとがに平が訪れたよ」
「ねえ博幸、あのばあさん、本当に疑わなかったの? 突然の級温泉旅館なんて、普通怪しむじゃない」
女が喉を鳴らして笑いながら問いかけると、博幸さんはを鳴らし、底相を見しきった調子で言い放った。
「疑うわけがないだろう。あいつはのまでカビのえた、ただの『ちょろい女』なんだから。
広告
おすすめ作品
-
完結第6話
帰宅した夜、夫の嘘を知った
里帰り出産を終え、生後2ヶ月の息子を抱いてようやく自宅へ戻った美咲。夫・直人との3人暮らしが始まると思っていたその夜、隣人が突然玄関を叩いた。「毎晩毎晩、夜中までいい加減にしてください」。さらに「ご主人には前にも2回注意しました」と告げられ、美咲は耳を疑う。この2ヶ月、美咲は一度も家に帰っていない。では、隣人が何度も見かけた“妻らしき女性”は誰だったのか。問い詰められた直人は「会社の後輩が1度泊まっただけ」と説明するが、翌朝、隣人の証言によってその嘘も崩れ始める。出産のため家を離れていた2ヶ月間、自分の家庭で何が起きていたのか――美咲は静かに真実を確かめ始める。嫁姑|夫婦|不倫8.8千字5 1 -
完結第12話
花嫁が追い出した親友
幼なじみであり、仕事の相棒でもある親友・陸人の結婚式。 車椅子で生活する平井圭人は、心から親友の幸せを祝うつもりで式場へ向かった。だが、そこで待っていたのは、花嫁・美智からの冷たい拒絶だった。 「あなたがいると品格が下がる」 そう言われた圭人は、静かに式を去ろうとする。しかし美智はそれだけでなく、陸人との長年の友情まで断ち切るよう迫ってきた。 親友を困らせたくない圭人は、一度は身を引こうとする。 だが、美智は知らなかった。 目の前にいる車椅子の男が、陸人の人生を大きく変えた人物であり、さらに彼女が見下していた相手こそ、陸人が働く会社の代表だったことを。 結婚式当日、花嫁の一言から、隠されていた過去と本当の人間性が明らかになっていく――。怒り|修羅場1.9萬字5 46 -
完結第13話
判を押さなかった妻
65歳の佳代は、38年間連れ添った夫・修司から突然、離婚届と一枚の写真を差し出される。 写真に写っていたのは、10歳になる男の子。夫が11年前から外で関係を続けていた女性との子どもだった。 「離婚して、残りの人生は好きに生きたい」 そう言いながら修司は、離婚後も佳代に家に残り、食事や洗濯、薬の管理まで続けるよう当然のように求めてくる。 しかし佳代は、すぐには判を押さなかった。 悲しくて離婚できなかったわけではない。夫が隠してきた金の流れ、削られていた義母の施設費、そして“新しい人生”の裏にある都合のいい計画を、すべて明らかにするためだった。 38年間尽くしてきた妻が、最後に守ろうとしたものとは――。人生逆転|夫婦|熟年離婚1.9萬字5 61 -
完結第13話
0円の注文帳
母の死後、55歳の直子は、43年間続いた弁当屋「こもれび弁当」を片づけるため、久しぶりに実家へ戻った。 店の奥から見つかったのは、母が残した古い注文帳。そこには、直子が20歳の誕生日に母を嫌いになった夜の記録が残されていた。 《6号棟504 2食 0円》 《白いタオル》 《直子には言わない》 あの日、母は誕生日の食卓を途中で抜け出し、急ぎの配達へ行った。直子はずっと、母が自分より店の客を選んだのだと思っていた。 しかし30年後、注文帳に残された「0円」の意味を追ううちに、直子は知らなかった母の顔、父が隠した事実、そして自分が娘に繰り返しかけていた言葉の重さに気づいていく。 母は本当に、娘の夢を奪った人だったのか。 古い弁当屋に残された一冊の帳面が、30年間止まっていた母娘の時間を静かに動かし始める。金銭問題|修羅場1.9萬字5 83 -
完結第13話
「田舎者」と見下した婚約者を実家へ招いたら、態度が一変した
地味で素朴なまゆは、恋人・光希から突然プロポーズされる。 しかし彼と女社長の母は、結婚相手を「家政婦」として値踏みし、田舎育ちのまゆを見下していた。そんな二人を実家へ招待すると、専属運転手、大豪邸、ワインセラー、ヘリポートまで現れ態度が一変。 だが、本当の審査はここからだった――。人生逆転|夫婦1.9萬字5 21 -
完結第19話
「孤児の貧乏女」と捨てた妻の本当の正体
「孤児院育ちの貧乏女」と蔑まれ、15年連れ添った夫・拓也に愛人と共に追い出された美桜。だが彼らは知らなかった――彼女の正体が、日本最大級の九条財閥の令嬢であることを。 離婚届に判を押した翌朝、500億円の契約解除、横領、裏切り、そして恐るべき犯罪計画まで次々と発覚。勝ち組を気取っていた夫たちの人生は、一夜にして崩壊する。 最後に笑うのは誰なのか――壮絶な逆転復讐劇が始まる。夫婦|不倫2.9萬字5 403 -
完結第13話
エレベーターの7時間
5月7日。 東京の大型デパートで突然の停電が発生した。 妊娠6か月の雪は、8人の乗客とともにエレベーターへ閉じ込められる。 救助が来るまでの7時間、彼女は自分の命よりも先に、高齢者や子供たちを守り続けた。 しかし、扉が開いた瞬間―― 救助隊長である夫・明が最初に抱き上げたのは、妻ではなく元恋人の桜だった。 「私と赤ちゃんは、もう彼を待たない」 意識を失う直前、雪が救助隊員へ託した結婚指輪と最後の言葉。 その日から、夫婦の関係は完全に崩れ始める。 なぜ明は、命の危険にある妊娠中の妻より、別の女性を選んだのか。 そして、10年間信じ続けていた桜との“過去”には、誰も知らない秘密が隠されていた。 救助記録と証言が明らかにした真実。 それは、雪が失ったのは夫だけではなく―― 自分を守るはずだった家族そのものだった。夫婦2.0萬字5 154 -
完結第13話
退職届を出した夫が、最後の会議で暴いた妻社長の嘘
3年前。 妻・美穂が経営する会社で働いていた健二は、突然退職届を提出した。 理由は、妻の秘書・田中から告げられた一言だった。 「空気を読んで、自分から辞めてください」 愛する妻の会社で、自分だけが邪魔な存在になっていた。 しかし美穂は、田中との関係を否定し続ける。 「彼とは同僚としての関係しかない」 健二が信じていた3年間の結婚生活は、少しずつ崩れていた。 だが退職の日、健二はさらに恐ろしい事実を知る。 自分を追い出すために仕組まれた偽のセクハラ告発。 消された顧客情報。 そして、妻と秘書が隠していた本当の目的。 追い詰められた健二は、最後に残された証拠を手に取る。 音声記録。 社内システムの履歴。 競合会社との裏取引。 すべてを明らかにする場所は――妻の昇進をかけた役員会議だった。 そこで暴かれる、愛していた妻の裏切り。 10年間支えてきた会社も、信じ続けた夫婦の絆も、一瞬で崩れ去る。 そして健二は、何も奪わず、ただ一言だけ告げる。 「もう、昔の俺には戻れない」修羅場2.0萬字5 323 -
完結第13話
10年契約の果てに消えた夫
10年前。 事故で妻と娘を失ったタケシの前に、謎のシステムが現れた。 「別の世界で10年間、ユキとその娘に寄り添えば、失った家族を復活させる」 愛する家族を取り戻すため、タケシは契約を受け入れた。 そして彼は、ユキと幼いヒメのために、すべてを捧げる10年間を過ごした。 しかしユキが愛していたのは、タケシではなく、かつて自分たちを捨てた初恋の相手・シャオだった。 タケシは夫ではなく、都合のいい存在として扱われ続ける。 残り7日で任務が終わる日。 シャオが戻ってきたことで、タケシの最後の居場所は完全に奪われた。 そして彼は、10年間守り続けた家族からも、最後まで信じてもらえなかった。 やがて任務を終えたタケシは、すべてを捨てて元の世界へ帰る。 数年後、真実を知ったユキとヒメは、初めて彼がどれほど傷ついていたのかを理解する。 だが――。 もう彼の隣には、二度と離したくない本当の家族がいた。 10年間の犠牲は愛だったのか。 それとも、ただ失った家族を取り戻すための契約だったのか。修羅場1.9萬字5 198 -
完結第11話
退職金より失ったもの
「退職金は俺が39年間働いて得た金だ。お前には1円も渡さない」 定年を迎えた夫の一言で、39年間家族を支えてきた妻・佳代の心は静かに壊れた。 夫は、家事も育児も介護も、妻がしてきた全てを「家にいただけ」と言い切った。 しかし翌朝、佳代が残した青いファイルを開いた夫は、初めて知らなかった事実を目にする。 そこには、39年間の家計の記録と、誰が何を支えてきたのかを示す証拠が残されていた。 「では、全部清算しましょう」 妻が選んだのは、夫の退職金を奪うことではなかった。 夫婦として積み重ねてきた時間、その価値をもう一度問い直すことだった。 2760万円の退職金よりも先に、夫が失った本当のものとは――。夫婦|退職金|金銭問題|熟年離婚1.7萬字5 980