"名前のない弁当箱" 第6話
何度をげても、「価格がい」「設備がりない」と断られた。
源郎も古いりいを訪ねた。だが戦に助けった同業者のくは廃業するか、企業の系列へ組み込まれていた。だけで仕事を回せる代ではなくなっていた。
料の3、の預はほとんど底をついた。正は自宅を担保に入れることを提案したが、澄が首を横に振った。
「をなくしたら、が駄目になったに皆さんを泊める所までなくなります」
「母さん、そんな先のことまで考えているじゃない」
「苦しいほど、最に残すものを決めておかないといけません」
澄は自分の箪笥から、さな桐箱を取りした。には母親から譲られた簪と指輪が入っていた。
「これを使ってください」
源郎は受け取ろうとしなかった。終戦直にも、澄は嫁入り具をのために放している。これ以、妻のものを売ることはできなかった。
その、正はの棚に積まれた弁当箱に目を留めた。毎届いたアルミの箱は、洗って返しても次のには別の箱が使われることがあり、いつのにか数個が残っていた。
属の代は終わっていたが、アルミにはまだそれなりの値がついた。正は弁当箱を屑鉄へ持っていこうとした。
「待て」
源郎がい声で止めた。
広告
「ただの空き箱だろう。置いておいてもにはならない」
「それは売るな」
「じゃあ、何を売るんだ。父さんので料がせるのか」
正はわず声を荒らげた。源郎も珍しく息子の胸ぐらを掴んだが、拳を振りげることはできなかった。
「その箱があったから、ここまで来られたがいる」
「今ここで働いているを守れなければ、昔のいに何のがある!」
のが静まり返った。社員たちは聞こえないふりをしていたが、全員が2の争いにを澄ませていた。
正は弁当箱を抱え、をびした。屑鉄のまでったところで、箱のつからさな片が落ちた。何度も洗われ、底の隙へ張りついていたものらしい。
には、鉛でこうかれていた。
『にしい若いが入ったと聞きました。今は14分です。りなければ、社はべないでしょうから、必ず社の分も残してください』
付は昭296。いた者の名はなかった。
別の箱の蓋を調べると、裏側にさく文字が刻まれていた。
『』
さらに別の箱には、『田辺』『野寺』『』という名が残っていた。川の名を見つけた瞬、正はのに見た傷の女性をいした。
これらは単なる容器ではなかった。かつてで働き、別々のへ旅った者たちが、度だけでも自分の名を残そうとした証だった。
広告
正は弁当箱を売らずに持ち帰った。
するとの入には、見覚えのない男たちが集まっていた。背広姿の者、職の者、農作業着の者。齢も暮らしぶりも違っていたが、皆どこか懐かしそうにの板を見げていた。
その央に、に傷の痕を持つ志津がっていた。
「弁当箱を売るほど困っていると聞きました」
正は驚いて父を見た。源郎も事をらなかったらしく、黙ったままち尽くしている。
志津の隣にいた男が歩へた。終戦直にで倒れた修だった。今は埼玉で自部品会社を営んでいるという。
「社、今度は私たちの番です」
はそう言って、仕事の図面を差しした。
が持ってきたのは、型トラックに使う部品2000個の注文だった。納期は厳しかったが、本鉄所の設備と技術なら対応できる内容だった。
ほかの元社員たちも、それぞれ自分の取引先から回せる仕事を持ってきていた。田辺は建築具、野寺は農具の部品、方から来られなかった者は材料費として使ってほしいとを託していた。
源郎は図面を見たまま、首を横に振った。
「同で仕事を回すな。おたちの会社まで苦しくなる」
「同ではありません」
はまっすぐに源郎を見た。
「本鉄所なら作れると判断して持ってきました。
品質が悪ければ、容赦なく返品します。値段もほかのと同じです」
広告
おすすめ作品
-
完結第10話
ラジオの涙
昭和26年、東京郊外の小さな家で、父は毎晩8時になると必ず古いラジオの前に座っていた。 家族が眠る時間になっても動かず、静かに放送へ耳を傾ける父の目には、いつも涙が浮かんでいた。 息子は、戦争で失った誰かを思い出しているのだと思っていた。 しかし、父が亡くなった後、押し入れの奥から見つかった一枚の古い紙が、家族の知らなかった過去を明らかにする。 終戦の日、小さなラジオを囲んだ兵士たち。 そこで父が感じた、決して忘れることのできない「ある瞬間」とは――。 一人の父が何十年も胸にしまい続けた、涙の本当の理由が今明かされる。昭和1.4萬字5 8 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5萬字5 3 -
完結第10話
忘れられなかった一つの名前
昭和32年、父・佐藤隆一は、古びた軍服のボタンを何十年も大切にしまっていた。 家族が「もう捨ててもいいのでは」と言っても、父は決して手放そうとしなかった。 しかし、父の死後、そのボタンの裏に刻まれた見知らぬ男の名前が、息子・健一の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ父は、一つの古いボタンを守り続けたのか。 そこには戦争の記憶ではなく、時代を越えて守られた、一人の青年との約束が隠されていた――。昭和1.5萬字5 311 -
完結第10話
焼け跡の花束
昭和22年、焼け跡が残る東京の街角で、毎朝誰にも知られず置かれる小さな花束があった。 野に咲く数本の花を、まだ幼い少年が古いレンガ壁の前にそっと置いていたのだ。 戦争で両親を失った少年を救ったのは、すべてを失いながらも一切れのパンを分けてくれた一人の女性だった。 それから何十年もの間、少年が守り続けた約束。 なぜ彼は、誰もいない焼け跡へ毎朝花を届け続けたのか。 戦後の混乱の中で生まれた、小さな優しさと忘れられない「ありがとう」の物語――。昭和1.5萬字5 1185 -
完結第11話
手書きの時刻表
昭和45年、山あいの小さな駅で、1人の駅員が30年以上大切に続けていた習慣があった。 田村修一が毎月作る手書きの時刻表には、列車の時間だけではなく、利用者一人ひとりの暮らしや小さな約束が記されていた。 若い駅員には古い習慣に見えたそのノート。しかし、雪の日に病院へ向かう老人を救った時、彼は初めて気づく。 それは単なる時刻表ではなく、町の人々の人生をつなぐ大切な記録だった。 やがて田村の定年の日、古いノートの中から見つかった一つの名前が、若い駅員の心を揺さぶる――。昭和1.6萬字5 608 -
完結第11話
最後の上映会
昭和49年、40年以上続いた小さな映画館「銀星座」が閉館した。 最後の上映を終え、静かに幕を閉じたはずの映画館に、翌週から毎週1本の古いフィルムが届き始める。 添えられていた紙には、ただ一言。 「今週も上映してください」 不思議に思いながら映写機を回した館主・山下清治が見たのは、映画ではなかった。 そこに映っていたのは、かつてこの町で暮らした人々の笑顔、失われた風景、そして誰も忘れていた大切な時間だった。 送り主はいったい誰なのか。 なぜ閉館した映画館へ、毎週フィルムを届けるのか。 一本の古い映像が、昭和の町に残された記憶を静かに呼び起こしていく――。昭和1.6萬字5 141 -
完結第10話
母が着続けた一枚の着物
昭和45年,母は20年以上もの間、同じ古い着物を着続けていた。 娘の美紀は、そんな母の姿をずっと「貧しいから我慢しているだけ」だと思っていた。正月も、結婚式の日も、新しい着物を選ばず、何度も直した一枚を大切にしていた母。 しかし、母が亡くなった後、古い着物の内側から見つかった小さな刺繍が、美紀の知らなかった過去を呼び起こす。 なぜ母は、その着物を何十年も手放さなかったのか。 そこには、戦後の苦しい時代を生きた女性たちの、忘れられない約束が隠されていた――。昭和1.5萬字5 1681 -
完結第10話
白いハンカチの約束
昭和47年、東京郊外の団地。 3号棟の4階に住む老夫婦は、毎朝7時になると、ベランダに真っ白なハンカチを一枚だけ出していた。 洗濯物を干さない日も、雨が降りそうな日も、そのハンカチだけは必ず揺れている。近所の子どもたちは不思議がり、「誰かへの合図ではないか」と噂した。 けれど、その白い布を毎朝じっと見つめていたのは、向かいの棟で一人暮らしをする老女だった。 ある冬の朝、いつもの時間になっても白いハンカチが出なかった。 ただそれだけの異変に、老女は胸騒ぎを覚え、急いで部屋を飛び出す。 電話もない時代、近すぎず、遠すぎず、互いの暮らしをそっと見守っていた人たち。 一枚の白いハンカチに込められていた、昭和の団地の小さな約束の物語。昭和1.4萬字5 884 -
完結第10話
赤いバイクと最後の新聞
昭和50年、岐阜県の山あいに、全校児童がわずか3人だけの小さな分校があった。 給食もなく、冬は石油ストーブを囲んで授業を受けるような古い木造校舎。そんな子どもたちが毎朝楽しみにしていたのは、山の外の世界を伝えてくれる一部の新聞だった。 ところが、その分校は翌年3月で閉校することが決まる。教材も雑誌も次々と止まり、子ども新聞の購読も打ち切られた。 それでも、59歳の郵便配達員・田所信一は、雪の山道を越えて毎朝新聞を届け続けた。 誰も頼んでいない。もう学校も終わる。たった3人の子どものために、なぜそこまでするのか。 分校最後の日、子どもたちは初めて知ることになる。 田所が守ろうとしていたのは、新聞そのものではなかった――。昭和1.5萬字5 285 -
完結第11話
余ったパンの嘘
昭和43年、東京近郊の古い木造小学校。 5年生の担任・村上昭一には、子どもたちが気になって仕方ない習慣があった。給食の時間になると、牛乳とおかずは食べるのに、コッペパンだけは毎日ほとんど口にしない。そしてそれを紙に包み、古びた革鞄の中へそっとしまうのだ。 「先生、今日も持って帰るの?」 子どもたちが尋ねても、村上はただ「腹いっぱいなんだよ」と笑うだけだった。 けれど、毎日続くその行動には、誰にも言えない理由があった。 ある放課後、どうしても気になった3人の男子は、先生の後をつけることにする。黒い自転車で工場町を抜け、川沿いの砂利道を進んだ先にあったのは、河川敷に建つ小さな家だった。 そこで子どもたちは、先生がなぜ「余った」と言い続けていたのかを知る。 1本のコッペパンに込められていたのは、ただの親切ではなかった。相手の誇りまで守ろうとした、静かな優しさだった。昭和1.6萬字5 1146