"シャッターを切らなかった日" 第20話
シャッターの向こうにあるもの
昭48の、僕は熊本内の写真関係の仕事で、現像と印刷を学ぶことになった。
俣をれると親方に話すと、彼は「腕をげてこい」とだけ言った。母は宿先の所を何度も確かめ、父は古い具箱をつくれた。にはドライバーやペンチのほかに、写真館で使えるさな平器が入っていた。
「械は、まっすぐ置け」
父らしい餞別だった。
発、僕はもう度、町を歩いた。港のには、見慣れた自転が通り、先には洗濯物が干されていた。の建物は変わらずそこにあった。のも、僕が最初に撮った頃と同じように見えた。
母は発の晩、「向こうで俣から来たと聞かれても、隠さなくていい」と言った。僕は「隠すかどうかは自分で決めるよ」と答えた。母は瞬驚き、それから笑った。「そうだったね。私が決めることじゃないね」。僕は恵子のをいした。町を誇ることも、町のことを話したくないがあることも、に命じられるものではない。
けれど、僕のっている町は、とは違っていた。
写真館の棚には、本の解を記した台帳が増えた。倉庫の展示はに度、さな集まりとして続いている。写真を持ってくるもいれば、話すだけのもいた。何も話さず、子に座って帰るもいた。
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僕は本仕へ寄った。
枝さんはミシンを踏んでいた。横には、郵便で届いたが着並んでいる。注文票の名にはいがねられ、壁には僕が撮った縫い目の見本写真が貼ってあった。
「ていくんだってね」
「はい。写真の勉をします」
「いいことだよ。ずっとここにいなきゃいけない理由なんてない」
彼女は縫い終わった布を持ちげた。
「でも、帰ってきたら、また仕事の写真を頼むかもしれない」
「いつでも」
僕は笑った。
をようとすると、枝さんが呼び止めた。
「航君。最に枚、撮っていかない?」
僕はカメラを取りした。
「何を撮りましょう」
「の。今度は私も写るよ」
彼女は掛けを直し、の板の横にった。僕が構図を決めると、枝さんは首を振った。
「もうし。あそこに、直したを取りに来るが通るから。通りも入れて」
僕は歩がった。の入と、へりる坂が緒に写る位置だった。枝さんの表は静かで、肩の力も抜けていた。
「これでいいですか」
「うん」
シャッターを押した。
枚だけだった。何枚も撮って番劇な顔を選ぶ必はなかった。
そのあと、枝さんはに戻り、僕は坂をった。角を曲がると、志津さんが倉庫の戸をけていた。子を並べる音が聞こえた。岩崎さんは入の板を直し、さんは古い写真の箱を抱えて歩いていた。
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僕はカメラを構えかけたが、やめた。
このたちの暮らしは、僕が撮っていないにも続いている。僕の写真に収まらないからといって、消えてしまうわけではない。
汽に乗る、写真館へ最のネガを届けた。親方は袋に付をき、僕に確かめた。
「この写真は、どう使っていい」
「枝さんのの記録として。のへすときは、もう度本に聞いてください」
親方はうなずき、台帳へき込んだ。
「おも、ようやく写真らしくなったな」
写真館の戸で、親方は僕に予備のネガ袋を束くれた。袋には何もかれていない。僕は枚取りし、表に《撮した》《写るの希望》《使ってよい所》と欄を作った。しい町でも、僕は同じところから始めるつもりだった。
僕は笑った。
駅のホームには、族連れや学がいた。僕はカメラを鞄へしまい、切符を握った。
世界へ届く写真がある。誰かの仕事を支える写真がある。自分のの引きしにだけ残したい写真もある。そして、撮らないことで守れるがある。
昭46のあの、枝さんの先で僕がシャッターを切らなかったことを、僕はずっと覚えているだろう。
あれは、何もできなかった瞬ではなかった。
相の返事を待つことを、初めて覚えた瞬だった。
列がきした。
僕のいない町でも、今の仕事が始まっていた。
史実と創作について
本作は、昭46(1971)から昭48(1973)の俣を台にしたフィクションです。瀬航、本枝、吉岡恵子、岸本写真館など、物語の物・舗・展示会・会話は創作であり、実する俣病被害者の私活や発言を再現したものではありません。
俣病の公式確認は1956、政府が排のメチル化物を原因とする統見解を発表したのは1968です。W・ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスが1971に俣で取材を始めたこと、1972に『LIFE』誌で写真記事が発表されたこと、1973320に熊本方裁判所で原告側勝訴の判決がたことは、史実に基づいています。スミス夫妻に本作独自の台や架空の患者との具体なやり取りを割り当ててはいません。