"消えた路地の矢印" 第1話
い矢印
昭399、京の空には、朝から細かな砂ぼこりがっていた。
事の音は、もう季節の音になっていた。鉄板を叩く音、ダンプカーの唸り、くから聞こえるクレーンの警笛。その隙を縫うように、商のラジオからは京オリンピックの準備を伝えるニュースが流れていた。
黒田俊は、標識を塗る刷毛を持ち、い板のに青い矢印を描いていた。23歳。都標識というさな会社に入って3目になる。職と呼ばれるにはまだく、見習いと呼ばれるには、もう失敗が許されない齢だった。
「矢印の先を、もうし細くしろ。くから見たとき、の幅に見わない」
親方の杉が、背から言った。
俊は刷毛を止め、板から半歩れた。矢印はまっすぐを指している。しく拡幅されるをめば、幹線にられる。そこから先は、国にもわかるよう、ローマ字を添えた標識がつ予定だった。
「が広くなれば、迷うも減りますか」
「は減るだろうな。迷うは、が広くなっても迷うさ」
杉は笑わなかった。事の現をく見てきた男は、完成予図よりも、事に起こるさな事故を気にしていた。
俊たちの仕事は、しいの案内板を取り付けることだけではなかった。事区域にある古い板をし、仮設の柵に貼られたきの案内を消し、役所から渡された図にわせて、通方向を統する。
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古い板には、の板に墨でいたものもあれば、主がブリキにペンキで描いたものもあった。
そのに、俊のが止まる板があった。
「野診療所 このをへ」
文字は焼けしてくなり、矢印の先はに流れていた。板のには、誰かがから付けしたらしいさな板がぶらがっている。
「枝活版所」「青果・本」「豆腐 朝倉」。それぞれの名が、別の方向を示していた。
「こんなものまですんですか」
俊が尋ねると、杉は事図面を指で叩いた。
「このは封鎖される。そのものがなくなるんだ。残したって、き止まりの板になる」
「でも、診療所は残ります」
「診療所へくは、別に作る。しいができるんだ。古いにわせて標識を残すわけにはいかん」
理屈は正しかった。事図面には、の幅も、の流れも、期も記されている。そこにかれた線は、誰かの都で引かれたものではない。俊も、狭いに消防が入れず、事のときに勢が困ったという話を聞いたことがあった。
それでも、古い板をすと、の入が急にの町のように見えた。
昼休み、俊はの奥へ歩いた。幅はがすれ違うのがやっとで、荷が通ると、軒先のが体を引かなければならない。樋がく垂れ、箱や植鉢が壁際に並んでいる。
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しいから見れば、たしかに雑然としていた。
けれど、には順番があった。魚の荷が届くに豆腐が戸をけ、診療所の護婦が裏から薬の包みを受け取り、活版所の若い職が刷りがった伝票を抱えてる。誰かがち止まれば、ろのが黙って待つ。その狭さにわせた暮らしが、いをかけて来がっていた。
俊が標識に入ったばかりのころ、初めてこの辺りへ板を届けに来たことがある。所だけを頼りに歩き、同じような格子戸が並ぶで迷った。すると豆腐の女将が、「青い洗濯桶の角を曲がって、魚鉢のあるの向かい」と教えてくれた。図には載らない目印だったが、俊はその言葉どおりにたどり着けた。あのときは、町のが親切なのだとった。今になって、それは親切だけではなく、互いの暮らしをっているからこそ成りつ案内だったのだと気づいた。
の突き当たりに、枝活版所があった。階の窓から、活字を組む属音が聞こえる。入には、主の枝源治が腕を組んでっていた。俊が板を見げると、源治はその線に気づいた。
「には、あれもすんだろう」
源治は、診療所の板を顎で示した。
「事の予定では」
「予定、か」
源治は、笑ったようにも、唇を噛んだようにも見えた。
「このは、図のでは細い線だ。だが、俺たちには毎の仕事そのものだ。線を消せば、仕事も緒に消えるとっているのかね」
俊は返事をしなかった。自分は標識を描く職であって、を決めるではない。そう言い聞かせることはできた。
夕方、会社へ戻るに、俊はもう度だけ古い板を見た。矢印の先は、には板ごとされる。
しい標識には、きれいな青い矢印が描かれていた。誰が見ても違えないように、まっすぐ、迷いなく。
会社の見本帳には、標識のや文字のきさ、矢印の角度まで細かく決まりがあった。決まりがあるから、初めて京へ来たでも同じ案内を読み取れる。俊はそれを誇りにっていた。だからこそ、規格にわない古い板をす仕事にも、疑問を持ったことはなかった。今は、規格を守ることと、現を見なくていいことは別なのだとじ始めていた。
その矢印が、誰を置きりにするのか。俊はまだ、考えたことがなかった。