"9,000億円の離婚届" 第2話
浩司は婚届を残したままちがった。
「あら、浩司。会社に戻るの? 忙しいのに変ね」
子も腰をげ、私を見ろした。
「ゆみさん、あなたはお骨を拾ったら、適当にで帰りなさい。の鍵はもうけないから、荷物はで送ってあげるわ」
2は、父の遺骨を拾うという最も切なさえ放棄し、待をていった。
広い部に残されたのは、私とさん、そしてテーブルのの婚届だけだった。ざかる音が完全に消えると、さんは静かに私の向かいへ座った。
「よく耐えましたね」
その言葉を聞いた瞬、張りつめていたものがわずかに緩んだ。それでも私は涙を見せず、鉄の扉の向こうにいる父へ識を向けた。
今はまだ、しむだった。
数、父の遺骨を胸に抱き、私は1で実の古いアパートへ戻った。築40を超える建物のさな部には、線の煙だけが静かに井へ昇っていた。
さな仏壇のに座り、浩司が残した婚届を見つめる。議なほど、は穏やかだった。
私は喪のポケットから、父に託されたさな布袋を取りした。紐をほどくと、から黒いカードと、丁寧に折り畳まれた便箋がてきた。
そこには、父の力い文字が並んでいた。
『ゆみ。浩司たちがどんななのか、今の葬でよく分かっただろう。
広告
あいつらに、おを任せることはできない』
指先を震わせながら、私は次のへ目を移した。
『この黒いカードは、京駅にあるビルのマスターキーと特別座のカードだ。ビルの評価額は約9,000億円。全てを、お1に相続させる』
私は息を止めた。
9,000億円。
何度読み返しても、数字は変わらなかった。
いつも褪せたセーターを着て、アパートの庭のを抜いていた父。から「おじちゃん」と呼ばれ、壊れた箒を何度も直しながら使っていた父が、なぜ京駅の巨なビルを所していたのか。
黒いカードを持つが、さく震え始めた。
その、スマートフォンが鳴った。弁護士から届いたメッセージには、い文章だけが記されていた。
『準備はいました。、ご主の会社へ伺いましょう』
私は静かに画面を伏せ、婚届を自分のへ引き寄せた。そしてペンを握ると、自分の欄にゆっくりと名をき始めた。
浩司は、自分が勝ったつもりでいるのだろう。厄介な妻を追いし、美穂としいを始められると信じている。
このの浩司は、まだ何もらなかった。
自分が奪った通帳が、わずか3万円しか入っていない切れ同然のものだということも。その数、自分自が恐怖と絶望に震えることになるとも。
翌朝、実の古い掛け計が6を告げた。
広告
私は仏壇のの座布団に座ったまま、もせずに夜をかしていた。6畳と4畳半の2部しかない古いアパートの茶ぶ台には、婚届と黒いカード、そして父のが並んでいた。
『9,000億円のビルを、ゆみ1に相続させる』
何度文字を指でなぞっても、現実とはえなかった。
私のる父は、古いアパートの雇われ管理だった。褪せた作業着で廊を掃き、になるとのために凍った管へ湯をかけて回っていた。
部の壁には破れたカレンダーが掛かり、具も拾って修理したものばかりだった。贅沢など何ひとつしない、質素で静かなだった。
私は父の遺品を入れた段ボール箱をけた。には、擦り減った老鏡と、ガラスに細かな傷がついた古い腕計が入っていた。
それをに取ると、父のぬくもりがまだ残っているようにじられた。
父が脳梗塞で倒れ、半に麻痺が残ってからの3、私は必に介護を続けた。毎朝5に起き、浩司と子の朝を作り、の掃除と洗濯を済ませてから満員で病院へ向かった。
おむつの交換も、事の介助も、体を拭くことも、できる限り私がった。荒れで指先が割れ、血が滲んでも、ハンドクリームを買うさえ惜しんだ。
そので、父が好きだったさなプリンを買いたかったからだ。
夕方にはへ戻り、子の言を聞きながら夕を作った。夜になると、所のスーパーで閉の清掃パートをしていた。