"9,000億円の離婚届" 第1話
「ここに判を押せ。おの役目は、もう終わったんだよ」
浩司が吐き捨てるように言った瞬、葬の待を満たしていた空気が凍りついた。い鉄の扉の向こうからは、父の棺が焼かれているい械音が、絶えなく響いていた。
まだ父の遺骨すら拾っていない。そんなに、夫の浩司は緑の縁取りがされた婚届を、私の目のへ突きしていた。
浩司は喪のネクタイを緩めると、厄介な仕事を片づけたようにきく息を吐いた。向かい側に座る義母の子は、元を黒いハンカチで隠しながら、たい笑みを浮かべていた。
「ゆみさん、あなたもこれで肩の荷がりたでしょう」
その声には、父をくした私への気遣いなど欠片もなかった。、政婦のように扱ってきた嫁を、ようやくから追いせるというびだけが滲んでいた。
私は鳴らなかった。泣き叫ぶこともせず、膝ので両を固く握りしめていた。
そばに置いたコップのでは、めきったお茶がかすかに揺れている。自分の指先が震えていることに気づいても、私は顔をげなかった。
「親父さんの入院費だの葬式代だの、俺の稼ぎから随分吸い取ってくれたよな。だが、もう限界だ」
浩司は忌々しそうに舌打ちした。
それは完全な嘘だった。父の医療費も葬儀費用も、私が夜の清掃パートで貯めたと、父自のから支払っていた。
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浩司は1円もしていない。父が脳梗塞で倒れてからの3、見いに来た回数さえ、片で数えられるほどだった。
それでも私は反論しなかった。気力を失っていたからではなく、喪のポケットに入れていたさな袋を、布越しにく握っていたからだ。
くなる数、父が病で私に託したものだった。
「黙ってないで、さっさとけよ。俺にもこれからのがあるんだ」
浩司のからた「これからの」という言葉に、私はゆっくり目をげた。
その、テーブルのに置かれた浩司のスマートフォンがく震えた。画面には「美穂」という名とともに、「お疲れさま。く会いたいな」というメッセージが表示されていた。
私は気づかなかったふりをして線を落とした。美穂は浩司の会社の輩で、最になって何度も「残業」の理由に使われていた女性だった。
浩司の喪からは、線ではなく甘いの匂いが漂っていた。しみより先に、え切ったりが胸の底へ静かに沈んでいった。
泣くための涙は、もう残っていなかった。
浩司はスマートフォンを裏返すと、私のバッグの横に置いてあった古い通帳を勝にに取った。葬儀の続きに必になるとい、実から持ちしていたものだった。
「これは俺が預かっておく。親父さんの遺産といっても、どうせ2、30万円程度だろうけどな」
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浩司は通帳を軽く振り、く笑った。
「俺が払ってやった見のしにもならないが、切れ代わりにもらっておいてやるよ」
そう言って、通帳を自分の内ポケットへしまった。
私は元が緩みそうになるのを必にこらえた。浩司が奪った通帳は、父が町内会費を引き落とすためだけに使っていたもので、残は3万円ほどしかなかった。
浩司は、それが父の全財産だとい込んでいる。本当の資産がどこにあるのか、るはずもなかった。
待の隅では、葬儀社のスタッフとしていていた髪交じりの男性が、静かにコップを片づけていた。さんという父の古くからの友で、表向きは葬儀を伝ってくれていたが、本当の職業は弁護士だった。
さんと瞬だけ目がった。彼は何も言わず、ゆっくりと1度だけ頷いた。
まだくではない。
その目が、私にそう告げていた。
『全てが終わるまで、決してあいつらに本当のことを見せてはいけないよ』
病で父が残した言葉が、のに蘇った。父は浩司のたさにも、私が浩司と子から政婦のような扱いを受けていることにも、とっくに気づいていた。
だからこそ、私を守るために最の仕掛けを用したのだ。
「判を押したら、の朝までにテーブルへ置いておけ。俺は母さんをまで送ってから、会社に戻る」