"朝霧湯、最後の暖簾" 第12話
『また』を残す
昭。信州の町にも、ようやく遅いが来た。
朝湯の建物は、まだそこにあった。紺の簾は畳まれ、男湯の富士は乾いたままだ。湯にはがなく、洗いのタイルもたい。
正は最初の曜、久しぶりにの掃除をした。解体のためではない。放っておけば建物が傷むからだ。澄子も伝った。千絵はその週、寮へ移る準備でをれていた。
「静かね」と澄子が言った。
「客がいないんだからな」
「千絵もいないのよ。きりになると、こんなに広いだったかとうわ」
正は笑って、桶をねた。最のまで使っていたものも、欠けてしまったものもある。ひとつずつ確かめ、必なものだけ残した。
を再するかどうかは、もうので答えがていた。燃料の供が落ち着いても、々減る客、古くなった設備、修理費を考えれば、昔と同じ形で朝湯を続けるのは難しかった。しい借をしてまで釜を入れ替える決断はしなかった。
それは正にとって、負けたことに似ていた。
昔の自分なら、どんなに苦しくても『朝湯は続ける』と言っただろう。父から受け継いだ簾を畳むのは、の仕事を否定することのようにえた。
けれど今、正は別の仕事へ通っている。岸の設備会社では、学や旅館の配管を点検し、古い設備を全に使う方法を覚え始めた。
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失敗もある。若い者に教わることもある。それでも、の仕事が終わると自分のでへ帰ることができる。
澄子は町の共同の仕事を始めた。以、客に頼まれていた縫い物もしずつ再した。忙しくなったが、誰かの入浴にわせて毎晩遅くまで番台に座る必はなくなった。
の暮らしが楽になったわけではない。千絵の学費はまだい。古い建物の維持費も残っている。だが、翌の支払いがどうなるかをで確かめ、決めた分だけ働く。以のように、お互いを責めながら帳面を閉じることは減った。
朝湯が休業してから、町でもしずつ変化があった。朝湯の営業が分かる案内は役に置かれ、交通事業者と町の相談によって、歩くのが難しいが利用できる送迎が試験に設けられた。利用できる数はまだ限られている。由美のように仕事でがわないには、便が残っていた。
正は々、その相談のへ席した。以のように『うちの客を返せ』とは言わない。今は、どのに呂がなく、どんなが移に困るかを聞く役目だった。
ある、瀬が言った。
「朝湯が休んで初めて、町に呂のないがこんなに残っていると分かりました」
正は答えた。
「俺だって、毎来てくれてたが、どうやってから歩いてきたからなかったよ」
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瀬はうなずいた。
「全部すぐには直せません。でも、らないままにするのはやめたいとっています」
その言葉を聞いて、正は静かに笑った。
、千絵からが届いた。寮の暮らしは忙しいらしい。授業で覚えることがく、朝もい。縫い物をするときには、ウメにもらった裁縫箱が役にっているという。
『お父さん。初めて病院の実習を見にったとき、先から、具の悪いに何が必か勝に決めてはいけないと言われました。まず本に聞きなさいって。私はウメさんたちに話を聞いて回ったのことをいしたよ』
その文章を読んで、正は胸がくなった。
の最には、こういてあった。
『今度帰ったら、朝湯にでこうね』
澄子が言った。
「お父さんもお呂のお客になるのね」
正は笑った。
「を払って入るのは、子どものころ以来かもしれん」
のある、朝湯の戸を叩く音がした。けると、ウメと島がっていた。
「千絵ちゃん、元気にしてるかい」
「元気だよ。勉で忙しいそうだ」
ウメはほっとしたように笑った。
「それならよかった。今はお呂じゃないんだ。あの柱計がまだあるなら、見せてもらいたくてね」
正はを脱へ案内した。計は壁に掛かったまま、正確な刻を刻んでいた。
「いてるねえ」
とウメが言った。
「毎週、ねじを巻いてる」
島が笑った。
「もう客を待ってるわけでもないだろう」
「そうなんだけどな。止める理由が見つからん」
は、計のの子に座った。正が茶を持ってくると、ウメはかつて番台で話した所の噂を聞かせ始めた。誰が孫の入学式へった、どこのの梅がよく実った、町営バスの刻が変わった。
しばらくすると、で子どもの声がした。所の学がりながら、「昔ここ、お呂だったんだって」と話している。
正はその声を聞き、しだけ寂しくなった。
たった半で、子どもには昔話になるのだ。
それも仕方ないとった。自分が子どものころ、父の仕事に積みだった薪は、娘にとってすでに昔のものだった。娘がになるころには、湯のないにむももっと減っているかもしれない。代は誰かのが続くのを待ってはくれない。
ウメたちが帰ると、澄子が番台の引きしを片づけ始めた。
「これ、どうする?」
彼女が差ししたのは、正が最の夜にした紺の簾だった。
正は受け取り、広げた。端に、何度も直したさな縫い跡がある。澄子の仕事だった。
「洗って、しまっておこう」
「もう掛けないかもしれないのに?」
「それでいい」
正は静かに答えた。
「掛けていたがなくなるわけじゃないから」
は緒に簾を畳んだ。棚のにしまう、正は父の札を取りした。
『湯を沸かすことを仕事とうな。を迎えることを仕事とえ』
い、そこにかれたを違えていた。父は、ずっとをけていろと言っていたのではない。自分の仕事が誰のためにあるのか、忘れるなと言っていたのだ。
正は札を戻し、戸を閉めた。
その夕方、彼は澄子とでを渡った。向こう岸には朝湯の煙突が見え、入には宮田がっていた。
「遅かったじゃないか」と宮田が言った。「今は客として来たんだろう」
「ああ。分、頼む」
正は銭を取りした。宮田はいつもどおりの入浴料を受け取り、湯札を渡した。
湯の匂いがした。子どもが笑い、桶がを打つ音が聞こえた。正はその音を、初めて客の側から聞いた。
湯につかると、温かさが胸まで広がった。
壁には富士ではなく、をかぶった信州の々が描かれていた。正はそれを見つめたまま、く息をついた。
帰り際、宮田がぬぐいを肩に掛けながら言った。
「また来いよ」
正はを止めた。そして、昔の自分なら何でもないとったであろう、その言に笑顔で答えた。
「うん。また」
朝湯の釜にが戻ることはなかった。
それでも、この町から『また』という声まで消えたわけではなかった。
(完)