"朝霧湯、最後の暖簾" 第4話
呂に入れないのこと
、朝湯は初めてだけ休業した。
正は玄関の戸に『燃料節約のため本休業』というを貼った。字をいたのは澄子だった。彼女は休業の理由だけでなく、『お困りの方は昼に声をかけてください』と余に付けした。
「そんなことをいてどうする」
正が聞くと、澄子は答えた。
「何に困っているか、らなきゃ何も決められないでしょう」
昼過ぎ、速の客が来た。歳いトメと、町に勤める若い母親、由美だった。トメはバケツ杯の湯を分けてもらえないかと尋ねた。由美は幼い子の体を拭くため、湯を沸かすきな鍋を借りられないかと言った。
澄子は湯を沸かそうとしたが、正が止めた。
「今は釜をかさないだ。庭の湯は台所で沸かせる。それにも燃料がかかる」
トメはすぐにを振った。
「いいのいいの。自分で何とかするから」
由美は申し訳なさそうに笑い、をた。
正はの背を見送った。違ったことは言っていない。なのに、ひどいことをしたような気がした。
夕方、千絵が帰ってくるなり、台所で洗面器をした。
「トメさんがので転んだって。私、様子を見てくる」
「怪は?」
「きな怪じゃないって。でも濡れたぬぐいを絞ってて、廊でを滑らせたみたい」
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正はちがった。でトメのへくと、築以のは底えしていた。炭の鉢はあるが、沸かせる湯は鍋杯ずつ。トメは膝に布を当てて座っていた。
「げさにしないでおくれ。を取ると、こんなことはよくある」
千絵が膝の状態を見て、になって腫れがひどければ診療所へこうと話した。医者でも護婦でもないから、それ以は決めつけなかった。正は壊れかけた廊の板に気づき、翌、に頼んで直してもらうことを申した。
帰り、澄子が言った。
「みんな、何も言わないだけで困ってるのね」
正はうなずいた。
「だからって、湯が湧いてくるわけじゃない」
「うん。そうなのよね」
澄子は反論しなかった。その素直な返事が、正にはかえってかった。
翌朝、町の担当者、瀬がを訪れた。歳の実直そうな男で、のない番台で何度もをこすっていた。
「まず、おの経営状況を聞かせてください」
正は帳面をした。燃料代が以に何度も変わったこと、配送量が減っていること、建物の補修費が残っていることを説した。
瀬は、料をげたいという望も聞いてくれた。だが、今すぐ入浴料の限を変えられるわけではない。県への調査や協議が必だという。
「それではにわん。寄りが、で転んでいる」
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正が言うと、瀬はを止めた。
「本さんやさんのことですね。こちらでも、呂のないを調べています」
「調べるだけで何になるんだ」
「分かりません。でも、入浴できないがどこに何いるか分からなければ、をす相談もできません」
正は、宮田から聞いた言葉をいした。互いにを張っているじゃない。
瀬は続けた。
「を閉めずに済む方法を緒に探したい。ただ、必な温や清掃は守ってください。燃料を惜しんでぬるい湯をく使い回すのは、かえって危険です」
「分かっています」
正はすぐに答えた。それだけは譲れなかった。父からを継いだとき、釜のより事なのはと掃除だと教えられた。燃料が減るからといって、客の全まで減らすつもりはなかった。
トメのから戻った翌、澄子は所の軒を訪ねて、湯を沸かせる具が分にあるか聞いた。鍋はあっても洗うためのきなたらいがない、台所が狭くてをこぼしやすいがあった。湯を届ければ解決すると簡単には言えないと分かった。
由美は、洗濯物の干された台所で話した。
「呂へけば子どもがり回っても、誰かが笑って見てくれたでしょう。でお湯を使うと、元が濡れないか、やけどしないか、ずっと気をつけていなきゃならないんです」
澄子はうなずいた。朝湯では、にがあるのが当たりだった。排も滑りにくい所も、毎掃除する決まりもあった。普通の台所は、浴の代わりに作られていない。
「じゃあ、朝湯が休んだら、どうするの?」
「いけど朝湯へきます。夫がく帰るは。ただ、料はバス代も惜しくて」
由美は、悪いことを言ってしまったという顔をした。
「おだって変なのに、愚痴ばかり言ってごめんなさい」
澄子は首を振った。
「話してくれてありがとう。正さんは、きっとおのことしか見えていないとう。でもね、私だって、ここまで困っているとはらなかった」
澄子はへ戻り、台所の隅にしい帳面を置いた。売の帳面とは別のものである。表に『困っていること』といた。名をむやみにに見せないようにして、どんな助けが必かだけまとめた。
ページ目は『で湯を沸かす所が狭い』。ページ目は『夕方のバスがない』。ページ目には『坂が凍る』といた。
正は夜、その帳面を見て驚いた。
「お、いつのにこんなことを」
「私が番台に座って聞いてきたことよ。でも聞き流していたの。今になっていてるだけ」
は、いつか誰かの役につかもしれないその帳面を、売の帳面とは別の棚に置いた。
午、千絵が学から戻ると、指導の先から渡された奨学案内を机に置いた。
返済するものと、定期働くことを条件に支援を受けるものがある。には細かな説が並び、正には度読んだだけでは分からなかった。
「お父さん。今度の曜、先に話を聞きにっていい?」
「勉のことなら、好きにすればいい」
「おのことだよ」
「だから、俺がすと言ってる」
千絵はを折りたたんだ。
「私が護婦になりたいのは、をたいからじゃないよ。でも、朝湯のために学を諦めるのも違うとう」
正は娘を見ることができなかった。を守ることと子どもの将来を守ることは、今まで同じだとっていた。いつのにか、そのつを互いの敵にしてしまっていた。
その夜、正は久しぶりに番台へ座った。休業の札はまだがったままだ。計の秒針の音だけが、広い脱に響いていた。
の柱には、父が墨でいた『朝湯』の名札が掛かっている。正はその札に向かい、声をさずに言った。
親父。おなら、どうする。
もちろん返事はなかった。ただ背で、の落ち切った蛇が度、かちりと鳴った。