"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第10話
誇りき宿泊料とお帰りなさい
翌朝、午。
初の澄み切った朝が庭園の赤松をく包み込む、也は羽織を着て、池のほとりのびのにっていた。たい朝の空気が肺を満たし、昨夜の来事がまるでであったかのように静まり返っている。
「さん」
背からかけられたい声に振り返ると、そこには黒い羽織を羽織り、両をろに組んだ桐正雄がっていた。
「……おはようございます、お父様」
正雄は池の鯉に目を落としたまま、也の隣の平らな庭のに腰をろした。
「起きだな」
「ええ。トラックに乗っていると、体が勝にに起きてしまうんです」
「そうか」
しばらくの、のに言葉はなかった。面を渡るが、をかすかに揺らしていく。
「昨夜、渡り廊から見ていた」
正雄が、独り言のようにをいた。
「夕の、おと結がで庭にて、池のほとりでを見ていただろう。結が何か言うたびに、おは体を結の方へ傾け、つひとつ頷きながら言葉を返していた。……それを見ていて、胸が痛んだよ」
正雄の線が、い過を追うように揺れた。
「私は……彩佳と、あんなふうに向きって話したことが度もなかった。楼の板を守るため、名声をめるため、政財界の客にをげ、帳の数字ばかりを気にしていた。
広告
彩佳が寂しそうにしていても、『宿のためだ』と言い聞かせ、目を背けてきた。の夫との結婚もそうだ。老舗同士の結びつきばかりを優先し、あの子がどれほど傷つき、追い詰められていたのか、見ようともしなかった」
正雄は自嘲するように元を歪めた。
「昨夜、結に言われて目が覚めたよ。『也さんがお父さんになってくれてよかった』と……あの子は、私ので誇らしげに言い放った。私はと名声を娘に与えてやった気でいたが、父親として本当に与えなければならなかったものを、何つ与えてやれていなかったのだとな」
正雄はゆっくりと顔をげ、也の目を真っ直ぐに見据えた。
「取り万円の暮らしので、毎千円を貯め続けることが、どれほどのと覚悟をするものか。……私には、よう分からん。だが、その千円がおたち族に与えたものは、私がこの宿でかしてきた何億円というよりも、遥かに尊く、温かいものだった。……さん。娘と孫を、からしてくれて、本当にありがとう」
百の伝統を背負う頑固な当主が、也に向かって、くをげた。
「お父様……をげてください」
也は胸の奥がくなるのを必に抑えながら、言葉を返した。
「俺は、派なじゃありません。でも、あのアパートのさな部で、彩佳の弁当をべて、結の笑顔を見ている、俺は世界で番幸せなんです。
広告
を幸せにしているんじゃなくて、俺が、に幸せにしてもらっているんです」
正雄は驚いたように目を見張り、それから、この旅で初めて、穏やかな柔な笑みを浮かべた。
「……そうか。彩佳は、本当に良い男を見つけたな」
午半。発の準備をえ、帳のにった也の元へ、松岡支配が静かに歩み寄ってきた。
「様。……宿泊費のことでございますが、女将、そして旦様とも相談いたしました。お嬢様のご実へのご帰還でございます。私どもといたしましては、今回は代を頂戴するわけにはまいりません」
松岡の温かい申しに、也は微笑んで首を横に振った。
「松岡さん、ありがとうございます。でも……ちゃんと払わせてください」
「しかし、様——」
「俺はこの旅のために、、毎千円を貯めてきました。くなった俺の親父が、果たせなかった約束でもあったんです。『いつか族で温泉にこう』って。……だから俺は、楼のお客として泊まり、自分のおでをばせたかったんです。このおを受け取っていただけることが、俺の父親としての誇りなんです」
也は着の内ポケットから、のロゴが入ったい封筒を取りし、帳の台のに置いた。
封筒から引きされた、ピンと伸びた万円札枚。
松岡支配はその札束を見つめ、それからい袋をはめたで、そっと目を押さえた。
「……かしこまりました。也様のその気いお、楼の誇りにかけて、確かにお預かりいたします」
松岡は万円札を枚ずつ、祈るように丁寧に数え、千円のお釣りと、達な毛でかれた領収を渡してくれた。
『領収証 万千円也 但し、ご宿泊代として 也様 楼』
残は減った。財布は軽くなった。しかし、也の胸は、これまでのでわったことのない誇りと充実で満ちりていた。
玄関の式台に、正雄と佳代が並んでっていた。
正雄は也のまで歩みると、を差ししてきた。節くれだった、老舗を守り抜いてきた男の。也がそのを握り返すと、像以の力い握力が返ってきた。
「也さん。また、いつでも来なさい。ここは……おのでもあるんだからな」
「はい! ありがとうございます、お父様!」
格子戸がき、寄せにめたい軽ワゴンへ向かう。
見送りに並んだ仲居たちの先で、松岡支配がく腰を折り、澄み渡る声でをげた。
「いってらっしゃいませ!」
、逃げるようにをびした彩佳に、決してかけてやることができなかった、願の送りしの言葉。
彩佳はち止まり、涙を拭って満面の笑みで振り返った。
「ってきます!」
軽ワゴンの部座席で、結は円玉の缶を抱きしめたまま、ぐっすりと眠りに落ちていた。
助席の彩佳が、ギアチェンジをする也のに、そっと自分のをねてきた。
「也さん……本当にありがとう」
「何言ってるんだ。俺たち、族だろ」
初の柔らかな差しが、フロントガラス越しにを温かく照らししていた。
取り万円。毎千円のさな積みて。
それは誰かに誇るような派な富ではないかもしれない。
だが、互いをいやり、約束を守り続けたの々のみは、どんな巨万の富にも決して揺らぐことのない、固く温かい絆となって、の未来をどこまでもるく照らししていた。