"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第9話
ののさなと円玉の真実
「結!」
也の声に、丸まっていたさな肩がびくっとねがった。
擦り切れたのサンダルを履き、え切ったコンクリートの止めのにさく座り込んでいた結が、ゆっくりと顔をげた。その瞳から、粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
には、あの油性マジックで「りょこうに」とかれたお菓子の空き缶が、胸が痛くなるほどく抱きしめられていた。
「結……よかった……本当によかった……!」
也はそのに膝をつき、自らの防寒ジャンパーを脱ぐと、凍え切った結のさな体ごと力いっぱい包み込んだ。結のは、まるで氷の塊のようにたくなっていた。
「どうしてこんな所にいたんだ? みんな探してたんだぞ」
結は也の胸に顔を埋め、しゃくりげながら、張り裂けそうな声で泣き叫んだ。
「お父さん……! お母さんと結は、ここにむの……? おじいちゃんが言ってた……お母さんと結は戻ってくればいいって……でも、お父さんの名は言わなかった……!」
「結……」
「お父さんは、本当のお父さんじゃないから……! だから、お父さんだけで帰っちゃうんでしょ……!? 結とお母さんを置いて、でアパートに帰っちゃうんでしょ……!?」
也の喉の奥が、い鉄を流し込まれたように詰まった。
「だから……ここに来たの……。
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お父さんののそばにいれば、お父さんが帰るに、緒に乗せていってもらえるとったの……! 結、お父さんと帰る! お父さんのボロいで帰るの! お父さんと緒にアパートに帰りたいよぉ……!」
結はたい指先で、也のシャツの胸元を必に掴んでさなかった。
血の繋がりなど、何のがあるというのか。
、をせば夜通し額のタオルを替え、運会では声を枯らして応援し、のから毎千円を握りしめてへってきた。その々のすべてが、この子ののに「たったの父親」としての也を刻み込んでいたのだ。
也は結を抱きげ、自らの体温を分け与えるようにく、く抱きしめた。
「置いていくわけないだろ……! 馬鹿野郎、置いていくわけないじゃないか……!」
也の目からも、ボロボロと涙がこぼれ落ち、結のたい頬を濡らした。
「お父さんは、結とお母さんと、で帰るんだ。あの軽ワゴンに乗って、でアパートへ帰るんだよ。お父さんがで帰るなんてこと、がひっくり返ったって絶対にない!」
「ほんとう……? ほんとうに……?」
「約束しただろ! お母さんを泣かせないって、結と指切りしたじゃないか! お父さんがいなくなったら、お母さんも結も泣いちゃうだろ! だから、絶対にれない!」
結は「うわあああん」
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と声をげて也の首にしがみつき、泣きじゃくった。
段のから、いくつもの懐灯のが揺れながらりてきた。
先をってきた彩佳が鳴をげて結を抱きしめ、そのろから佳代と松岡が息を切らして駆け寄ってきた。
そして、段の最段。
たいすりにすがりつき、肩で荒い息をしながらち尽くしていたのは、桐正雄だった。
正雄は、也の腕ので「お父さんと帰る、お父さんので帰る」と泣き続ける孫娘の姿を、ただ呆然と見ろしていた。その頑なだった老の瞳が、激しく揺れていた。
やがて、正雄は段ので、誰に対してともなく、く、々とをげた。夜の気の、その威厳に満ちていたはずの老当主の肩が、さく震えているのを、也は見逃さなかった。
宿へ戻り、浴の温泉で芯までえ切った体を温めた、夕の膳が母の広にえられた。
「今夜は、族だけで入らずでいただきましょう」
佳代の計らいで、朱塗りの杯や煌びやかな器が並ぶ、正雄、佳代、也、彩佳、そして浴の袖をまくった結のが座卓を囲んだ。
運ばれてくる料理は、どれも也がこれまでのでにしたことのないような絶品ばかりだった。裏の湧で締めた岩魚の造り、炭でばしく焼きげられた若狭甘鯛、柚子のりがふわりと広がる吸い物。
酒を断っている正雄は、ただ黙々と箸をかしていた。昼の気まずさを引きずり、座敷にはどこかぎこちない沈黙が漂っていた。
その沈黙を破ったのは、お膳のの里芋の炊きわせを美しそうに頬張っていた結だった。
「おじいちゃん、おばあちゃん。……お父さんの名はね、也っていうんだよ」
結は箸を置き、さな背筋をピンと伸ばしてを見据えた。
「さっき、のところでね、結、すっごく怖かったの。お父さんは本当のお父さんじゃないから、で帰っちゃうのかとったの。でもね、お父さんは『絶対にで帰る』って言ってくれた」
佳代が目を押さえ、正雄の箸がピタリと止まった。
「お父さんはね、すっごく優しいんだよ。結がをした、お仕事をお休みして、朝までずっとを握っててくれたの。ソーラン節の練習も、筋肉痛になるまで付きってくれたの。お昼ご飯はね、お母さんの作ってくれたお弁当をトラックのでべてるの。コンビニで買うとおがかかるからって」
結は浴の袂から、あの円玉の入った空き缶を取りし、座卓のにコトンと置いた。
「これね、結の旅貯。お呂掃除したら円、お皿洗いしたら円、お母さんからもらったの。かけて、千百円になったんだよ」
結は缶を両で持ちげ、チャリンチャリンと誇らしげに振って見せた。
「お父さんはね、結とお母さんを温泉に連れていくために、もから毎千円ずつ貯してくれたの。通帳にね、同じ『5000』がいーっぱい並んでるんだよ。タバコもやめて、お遣いも使わないで……この旅館のおもね、全部お父さんが自分のおで払うんだって。お母さんのおは使わないって決めてたんだって」
結は正雄の顔を真っ直ぐに見つめ、澄み切った声で言い放った。
「だからね、結、きくなったら、今度は結のおでお父さんを温泉に連れてってあげるの。……結ね、也さんがお父さんになってくれて、ほんっとうによかった!」
広な座敷が、を打ったように静まり返った。
庭の筧から落ちるの音だけが、コーンと静かに響いている。
彩佳は両で顔を覆い、声を殺して泣いていた。佳代も着物の袖で何度も目元を拭っている。
正雄は、かなかった。
畳のに置かれた、マジックで器用に「りょこうに」とかれたお菓子の空き缶。そこに注ぎ込まれた、貧しくとも清らかな歳の孫娘の。そして、その背にある、の男がも欠かさず積みねてきた、器用で誠実な献。
正雄はゆっくりと目を閉じ、い、い沈黙の底へと沈んでいった。
やがて、老当主の固く結ばれた元が、わずかに震え始めた。