"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第8話
母の対峙と消えた娘
母へ続く渡り廊は、齢をねた杉の巨に囲まれ、昼でも暗く気が張り詰めていた。袋の裏から伝わる欅ののたさに、也の先が張る。
富田が気を聞かせ、結を板へと連れてってくれた。厨の入りで、職たちが伝統の練り切り菓子を作る様子を見学させてくれるのだという。子供にの苦しい対決を見せまいとする、老舗旅館ならではの細やかな配慮だった。
「どうぞ、お入りください」
佳代が襖の引を引き、静かにへけた。
畳を超える広な座敷。座ののには狩野派のによる勇壮な鷹の掛け軸が掛かり、その背を向けるようにして、の老が端していた。
桐正雄。楼の当代当主であり、彩佳の実父。
く刈り込まれた髪に、隙のない濃紺の羽織袴。臓を患ったと聞いていたが、そのはを射すように鋭く、引き結ばれたい唇からは筋縄ではいかない厳格さが滲みていた。
也は敷居ので膝をつき、くをげた。
「初めてお目にかかります。也と申します。ご挨拶がも遅れましたこと、よりお詫び申しげます」
正雄はピクリともかず、ただ徹な線で也をからまで値踏みするように見つめた。沈黙の圧が、部の空気をガラスのように張り詰めさせる。
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「……座りなさい」
鳴りのようない声だった。也が彩佳の隣にみて正座すると、正雄は鋭い線をさないまま、淡々と問い質した。
「仕事は、何をしている」
「元の丸運輸という配送会社で、トラックの運転をしております。品スーパーやドラッグストアへ、料品や活用品を運ぶ仕事です」
「取りはいくらだ」
あまりに骨な問いに、佳代が「あなた……」と咎めるように声を漏らしたが、正雄はで制した。
也は切の虚栄を捨て、正面から正雄の目を見据えて答えた。
「取りで、に万円ほどです」
正雄の眉が、わずかに歪んだ。
「万。……それで、妻と子を養い、並みの暮らしをさせていると言えるのか。この子はな、何自由のない暮らしをさせるために、私が塩にかけて育てた娘だ。おのような収入の男の元で、狭いアパートに押し込め、パートにさせて苦労を背負わせるために育てたんじゃない」
その容赦ない言葉に、也の横で彩佳が激しく肩を震わせた。
也がをくよりく、彩佳が凛とした声で遮った。
「お父さん! 失礼なことを言わないで!」
彩佳は座布団からを乗りし、父をまっすぐに見据えていた。かつて父親のに怯え、言われるがままに見い結婚を受け入れた、あのの気な娘の面はどこにもなかった。
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「私、苦労なんて度もったことないわ! 也さんは毎朝に起きて、のものも、族のためにトラックをらせてくれているの。の夫のように、私の実の板を当てにすることもなく、借を押し付けることもなく、私と結を命懸けで守ってくれた! 私と結は今、から幸せなのよ!」
正雄は言葉を失ったように元を引き結び、拳を固く握りしめた。畳のに落ちた沈黙は、先ほどよりもずっとく、かった。
「……し、胸が苦しい。話はまたにする」
正雄はそれだけ吐き捨てると、横を向いて目を閉じた。佳代が目配せをし、也と彩佳はく礼して座敷を辞した。
客へと戻る渡り廊で、彩佳は「顔を洗ってくる」と洗面所へ向かった。で部に戻った也は、広縁の子に腰掛け、黄昏に染まる本庭園を見つめた。
『そんな苦労をさせるために育てたんじゃない』
正雄の言葉が、トゲのように胸に突き刺さっていた。、自分なりに全力を尽くしてきた自負はあった。だが、何代にもわたって富と名声を築きげてきた老舗の当主から見れば、取り万円の暮らしなど、れな貧困にしか見えないのかもしれない。
そのだった。
廊の向こうから、激しい音がバタバタと響いてきた。
襖が勢いよくき、息を切らした富田が蒼な顔でび込んできた。
「様! 変です! ゆいちゃんが……ゆいちゃんがどこにも見当たらないんです!」
「えっ……!? 板にいたんじゃないんですか!?」
「お菓子作りの見学が終わった、『お母さんのところへく』とりに母の方へ向かわれたんです。すぐそこだからと目をしてしまったのですが……母にも、客にもおられず……!」
也の臓が鐘を打った。計の針は午分を指している。初のあいのは釣瓶落としに暮れ、はすでに暗に包まれ始めていた。
らせを聞いた彩佳と佳代も駆けつけ、宿のは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。松岡支配の号令で、若い番や仲居たちが懐灯をに、館内の浴、売、宴会へと散っていく。
「裏の渓流沿いには、若い衆をかせます! 元が滑りやすくなっておりますから!」
松岡の言葉に、彩佳が鳴をげてそのに崩れ落ちそうになった。
「結……! 嘘でしょう、結……!」
也は履を突っかけ、庭のびへと駆けした。
「結ーっ! どこだ、結!」
庭園の築の裏、の、池の周りを無で探した。吐く息がく凍りつく。結はのカーディガンを羽織っていただけだった。このえ込みの、もし川に落ちていたら、で迷っていたら——最悪の像がをよぎり、也は歯をいしばってそれを振り払った。
庭の片隅で、肩で息をする佳代の元へ、母から正雄がゆっくりと歩みてきた。臓を押さえ、青い顔を歪めている。
「……音がしたんだ」正雄が掠れた声で言った。
「え……?」
「さっき、おたちが座敷をた……私が独り言を漏らしていた、障子ので、さな音がしたんだ」
佳代の顔から血の気が引いた。
「あなた……まさか、あの話を……?」
佳代が震える声で也にかした。也と彩佳が座敷をった直、正雄は苦渋に満ちた顔でこう呟いたのだという。
『彩佳と結は、この敷に戻ってくればいい。部などいくらでも余っている。あんなの男の元で、惨めないをさせる必はない』
結は、母の廊の角で、祖父のその言葉をすべて聞いてしまったのだ。
也はを殴られたような衝撃を受けた。
『彩佳と結は、ここに戻ってくればいい』——その言葉のに、也という父親の居所は、最初からしていなかった。
歳の女が、その言葉をどう受け止めたか。
好きな母親と自分がこの豪邸に引き取られ、血の繋がらない、貧しいトラック運転の父親だけが、でアパートへ追い返される——。
「……あそこだ」
也の直が閃いた。
この広で豪奢な敷ので、歳の結にとって唯「自分の」と繋がっている所。
也は庭を蹴り、玄関の寄せを抜け、段を転がるように駆けりた。
暗い砂利敷きの駐の最奥。
名や級が並ぶ片隅に、ぽつんと台だけまっていた、あのオンボロのい軽ワゴン。
そのたい運転席側のドアに寄り添うようにして、さなが、体育座りで固く丸まっていた。