"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第7話
トラックの誇りと母の抱擁
「顔をげてくれ、彩佳」
也の静かでい声に、彩佳は涙に濡れた顔を恐る恐るげた。
「正直に言うよ。……もっとく話してほしかった。おがそんなにいものをで抱え込んでたなんて、夫としてけないし、気づいてやれなかったことが悔しい」
「也さん……」
「でもな、俺が好きになって、命懸けで守ろうと決めたのは、楼のお嬢様じゃない」
也は彩佳の濡れた頬を、配送の仕事で荒れたゴツゴツとした指先で優しく拭った。
「スーパーの搬入で、牛乳がケースりないって教えてくれた桐さんだ。子供がをしたって聞いて、真っ青な顔で自転をらせていった母親だ。もやしのおかずを夫して、毎朝俺のために美い弁当を持たせてくれた、俺の自の妻だ。おがどこのまれだろうと、実がどれだけ持ちだろうと、俺たちがで作ってきた族の形は、何つ変わらないよ」
彩佳の瞳から、粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「でも、俺の料は取り万円だ。この旅館の贅沢な暮らしに比べたら、爪にを灯すような毎かもしれない。それでも……おと結を幸にしてるなんて、度もったことはないぞ」
「そんなの……当たりじゃない! 幸だなんて、ったこと度もないわ!」
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彩佳は也の胸にび込み、その作業着のに顔を埋めてしゃくりげた。
「私、今が番幸せなの。狭いアパートで、でちゃぶ台を囲んで、今あったことを話して……あんなに温かい、この広い敷のどこにもなかった。私、也さんと結婚できて、本当によかった……!」
也は彩佳の背をしっかりと抱きしめ、く息を吸い込んだ。
「約束してくれ。もう度と、辛いことをで抱え込むな。俺は学もないし、もないし、気の利いたことも言えないトラック運転だけど……おと緒に悩むことくらいは、いつだってできるんだから」
「うん……うん……! ありがとう、也さん……」
がを取りって涙をぬぐったその、広縁の向こうの障子が、トントンと慮がちに鳴った。
「失礼いたします」
静かにいた襖の向こうにっていたのは、品な藤の留袖を着た、気品ある初老の女性だった。髪をきれいに撫でつけ、目元の涼やかな輪郭は、驚くほど彩佳によく似ていた。
「……お母さん」
彩佳が息を呑んでちがろうとした瞬、女性は履を脱いで座敷へとがり、音もなく畳のに膝をついた。そして、彩佳の体をその細い両腕で、力いっぱい抱きしめた。
「彩佳……お帰り。よく、無事で……よく帰ってきてくれましたね」
「お母さん……! ただいま……ただいま、お母さん……!」
抱き締めう母と娘の背が、激しく震えていた。
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この女性が、楼の女将であり、彩佳の実母である桐佳代(かよ)だった。の空を埋めるように、は声をげて泣き続けた。也は邪魔をしないよう、静かに座布団を引いて広縁の隅へとを寄せた。
廊から、富田にを引かれた結が戻ってきたのは、ちょうどそのだった。
「お父さん、池の鯉ね、お麩を投げたらをパカーってけて——」
弾んだ声をげて部に入ってきた結は、抱きって泣いている母と見らぬ着物の女性を見て、を止めて目を丸くした。佳代は涙を拭いながら体をし、ゆっくりと結の正面へと膝した。
「……まあ。結ちゃんですね。こんなにきくなって……」
「こんにちは……結です」
結はしを竦めながらも、学で習った通りの丁寧なお辞儀をした。佳代はおしそうに目を細め、震えるで結のを優しく撫でた。
「覚えていないのも無理はありませんね。あなたがお敷をたのは、まだ歳のお誕を迎えたばかりの頃でしたから。……おばあちゃんですよ。お母さんのお母さんです」
「おばあちゃん……?」
結は首を傾げ、それから佳代の着物の美しい刺繍をさな指先でそっと触った。
「綺麗な着物……お母さんの昔のおうち、すっごく広くてびっくりしたよ」
佳代は胸を詰まらせ、結をそっと抱き寄せた。
それから、広縁の端に控えていた也の方へ向き直ると、畳に両をピタリと揃え、々と額を擦り付けた。
「也さん。娘と孫を……今まで温かく守り、切に育ててくださって、本当に、本当にありがとうございます」
「お、女将さん、をげてください!」
慌てて駆け寄った也に、佳代は涙に濡れた目を向けた。
「毎、元旦に届く賀状を、どれほど待ちにしていたか分かりません。結ちゃんが黄い通園子をかぶって笑っている写真、背丈が伸びてランドセルを背負っている写真……それを見るたびに、ああ、あの子たちは今、本当に温かい庭でされているのだと、私の胸の支えになっておりました」
「賀状を……見てくださっていたんですか」
「ええ。ですが……あの方には内緒でした」
佳代は声を潜め、客の奥の渡り廊の先を見つめた。
「主は、帳の棚に賀状が届くたび、何も言わずに自分の斎へ持ってってしまうのです。『あんな親孝者の便りなど捨ててしまえ』とでは言いながら……。、也さんが添えてくださったおも、主が真っ先に受け取り、引きしの奥へしまい込みました。私は、その文面を読むことすら許されなかったのです」
「お父様が……」
也が息を呑むと、佳代は静かに頷いた。
「今の、主が臓の発作で倒れ、週ほど入院いたしました。
命は取り留めましたが、退院してからの主は、どこか毒気が抜けたように庭の松を眺めてばかりで……。の初めに私が彩佳へお話したのは、主がポツリと漏らした言があったからなのです。『彩佳は……元気に暮らしているのか』と」
運命の糸が、静かに繰り寄せられていた。
「主には、今おがお見えになることは伏せてあります。もって伝えれば、頑固なですから、敷をびすか、払いを命じかねませんでしたから。ですが、玄関先であれほどの騒ぎになったのです。……今頃はもう、松岡から報告を受けているはずです」
佳代はちがり、彩佳のをしっかりと握りしめた。
「彩佳、也さん。奥の母へ参りましょう。主が何を言うかは分かりません。ですが、どうか逃げずに、度だけ顔をわせてやってはいただけないでしょうか」
彩佳は青ざめながらも、也のをく握り返した。
「……はい。也さんと緒なら、私、逃げません」
、頑なに閉ざされ続けてきた桐の奥座敷の扉が、今まさにかれようとしていた。