みかん小説
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"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第6話

老舗のみとの空

寄せの敷のに、にった赤黒い葉が枚、音もなく滑り落ちた。

也は、目のでく腰を折り続ける髪交じりの男性と、その正面で肩を震わせている妻の姿を交互に見つめ、声すらせずにち尽くしていた。背では、乗り続けてマフラーの根元がし錆びついたい軽ワゴンが、アイドリングの余でパチパチとさな属音をてている。

「お、お嬢様……?」

也のから漏れた呟きは、あいのたい空気に溶けて消えた。

玄関のな格子戸がへき、から濃紺や鶯の着物をにまとった仲居たちが、何事かとにてきた。そのの、髪を綺麗に夜会巻きにした配の仲居が、彩佳の顔を正面から捉えた瞬、両で自らの元を覆った。

「まあ……! お嬢様……本当に、お嬢様なんですね……!」

りに駆け寄ってきた仲居のが、彩佳のえ切った指先を包み込んだ。そのの震えから、どれほどのがこの所で止まっていたのかが痛いほど伝わってくる。結は也のジャンパーの裾をぎゅっと握りしめたまま、母の横顔と見らぬたちのやり取りをそうに見げていた。

「お母さん……りいなの?」

幼い娘の澄んだ声に、彩佳ははっとに返ったように仲居のをそっと解き、也に向き直った。

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その瞳からは、堰を切ったように涙があふれていた。

「也さん……本当にごめんなさい。ずっと、ずっと言えなくて……。ここ、私のまれ育った実なの。『楼』が、私のなの」

あいの古い宿、した旅館じゃない——、アパートのちゃぶ台を挟んで彩佳が語った言葉が、也の脳裏を激しく駆け巡った。

創業百を超える名の名。政財界の鎮や文化がお忍びで通い、泊万円を優に超えるれを備えた、本屈指の老舗温泉旅館。それが、毎朝特売のチラシをに見比べ、もやしと豆腐の炒め物で夫を凝らし、夫のために毎朝片でべられる俵型のおにぎりを握ってくれていた妻の実だというのか。

最初にをげていた男性が、ようやくゆっくりと体を起こした。

「失礼いたしました。取り乱してしまい、誠に申し訳ございません。当館の支配を務めております、松岡と申します」

松岡と名乗った男性は、く澄んだ差しで也の真正面にち、もう度折り目正しくをげた。

「也様でいらっしゃいますね。ご予約のお名を拝見したから、ずっと、今このをお待ち申しげておりました。……お嬢様のこれまでのご無礼、どうか寛なおでお許しくださいませ。お嬢様には、どうしてもにできなかったい事がございました」

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松岡は振り返り、若い仲居たちに目配せをした。

「お荷物をお預かりいたします。おは私どもの方での専用駐へ回しておきますので、どうぞキーをお預けください。まずは、お部へご案内いたします」

促されるまま、也たちは玉砂利の敷かれた回廊を歩いた。

本館の奥、磨きげられた欅の渡り廊を渡った先にある「見の」。畳の主にゆったりとした広縁が付き、障子をけ放つと、計算し尽くされた本庭園がに広がっていた。池には丸々と太ったの錦鯉が優雅に泳ぎ、対岸の築には齢数百を数える赤松が堂々と枝を伸ばしている。

案内してくれた配の仲居——富田という古株の女性が、窓辺に張り付いて鯉を見つめる結に優しく微笑みかけた。

「お嬢ちゃん、鯉に麩の餌をあげてみますか? お庭の池の端まで、私がご案内して差しげますよ」

富田はそう言いながら、ちらりと彩佳に線を送った。彩佳がさく頷くのを見て、結は「いく!」と元気に声をげ、富田のを引いて部をてった。夫婦きりで話せるよう、古参の仲居が気を利かせてくれたのだと也にもすぐに理解できた。

部のに、急激なしじまが訪れた。

のにけられたリンドウのが、静謐な空気に凛と映えている。テーブルのには、富田が淹れてくれた玉の湯呑みから、細くい湯気がちっていた。

彩佳は座布団のに正座し、膝ので両をくねわせた。会った頃と同じ、何かな告をするの、痛々しいほど背筋を伸ばした座り方だった。

「也さん。……っているでしょう。騙していたのかって、呆れているでしょう」

「ってなんかないよ」也は湯呑みを見つめたまま、静かに息を吐いた。「ただ……驚いただけだ。どうして、今まで言も教えてくれなかったんだ?」

彩佳は唇を噛み締め、ぽつりぽつりと、自らの過を語り始めた。

「この旅館の当主である桐正雄が、私の父親です。私は娘として、物ついた頃から『いずれはこの宿を継ぐだ』と教え込まれて育ちました。茶も華も、ち居振るいも、お客様へのお辞儀の角度つに至るまで、父の厳しい目が常にっていました」

父親にとって、旅館の名声と格式こそがのすべてだったという。そんな父の勧めで歳のに見い結婚したのが、旅館に入りしていた酒類卸問の跡取り息子、涼介だった。

「最初は、とても物腰の柔らかいでした。父も『老舗同士の良縁だ』と放しでんでいました。でも……結がまれてもなく、の夫がをした規事業がきく傾き始めたんです。額の負債を抱えたあのは、やがて楼の名と信用を使って、やから巨額の資を引っ張ろうとし始めました」

『おの実なんだから、をげて父親にかせろ』『楼の板さえあれば、いくらでもが回るんだ』——夜な夜なそう迫られ、彩佳が首を横に振ると、酒をんだ夫は具を蹴りばし、彩佳にをげるようになった。

「あのが見ていたのは、私でも結でもありませんでした。私の背にある、楼という板と、そこに群がるおだけだったんです」

結が歳になる直、彩佳は娘を連れて着の着のままでをびした。正式に婚が成した、結のを引いて実の敷居を跨いだ彩佳を待っていたのは、父親の酷な声だった。

『名の板にを塗りおって! 世にどんな恥を晒す気だ! 今すぐ相のにをげて戻れ!』

娘がどれほどを削られ、怯えていたのかにを傾けることもなく、父がにしたのは旅館の世体と取引先への体面ばかりだった。その夜、彩佳は眠る結を抱きかかえ、誰にも告げずに裏から抜けし、夜列にび乗ったのだという。

「代の友が、也さんのむあのにいて、アパートの保証になってくれました。スーパーの品しのパートも、その友が紹介してくれたんです。……そして、也さんと会いました」

彩佳は震える指先で目元をぬぐった。

「也さんに、実が旅館だってことだけは話しました。

でも……楼の娘だなんて、絶対に言えなかった。またあの恐ろしい悪が繰り返されるんじゃないかって……。私のの名やおを目当てにづいてくるんじゃないかって、どうしても怖かったの。……也さんがそんなじゃないって、最初におにぎりを美しそうにべてくれたから、結に鶴を折ってくれたから、痛いほど分かっていたのに……!」

結婚してが過ぎ、が過ぎ、幸せな々が積みなるにつれて、今度は「真実を隠し続けていること」そのものが、巨な罪悪となって彩佳の胸を押し潰し始めていた。

「取り万円の料のから、也さんが毎千円ずつ、事に事に積みててくれている姿を見るたび、私の胸は張り裂けそうでした。私はこんなにも嘘をついているのに、也さんは汗垂らして、私たちのために……。本当にごめんなさい、也さん……!」

彩佳は畳に額を擦り付けるようにして、声を殺して泣き崩れた。

也は、庭の池を眺めた。

入れのき届いた錦鯉、贅を尽くした調度品、漂う檀のり。自分が、爪にを灯すようにして貯めてきた万円というは、この旅館にとっては客が晩泊まるだけの端たに過ぎないのかもしれない。自分が必にトラックを転がして運んでいる々の暮らしが、急にちっぽけな砂粒のようにえて、喉の奥が苦く引きつった。

だが、也の胸を満たしたのは、騙されていたことへのりではなかった。

目ので泣きじゃくるこの柄な女性が、きりでどれほどの恐怖と孤独を抱え、自分と娘の活を守るために歯をいしばってきたのか。その痛みに、も気づいてやれなかった己の甲斐なさに対する、い悔だった。

也は座布団からり、彩佳のに膝をついた。そして、ぬるくなった湯呑みを静かに脇へ退けると、彩佳の震える肩へ、温かく力いをそっと置いた。

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