"50人ドタキャンで廃業寸前、そこへ現れた意外な客" 第1話
仕込みの湯気と悪の話
夕暮れの赤提灯が灯り始めた町の裏。簾に染め抜かれた『居酒 鉄(にてつ)』の文字は、のを吸ってし褪せていた。引き戸をけると、煮えたぎる鍋からちる鰹節と昆布の力い汁のりが、主のテツ——本名・鉄也(歳)の腔をくすぐった。
「よし……汁の引き具は完璧だ。あとは焼き台の炭の熾し具だな」
テツは首に巻いた拭いで額の汗を拭い、厨のステンレス台を見渡した。そこには、ずつ丁寧に串打ちされた自の焼き鳥が百本以、きれいにバットのに列していた。築から特別に仕入れた朝獲れの鮮魚が盛られた皿の数々、鍋ので飴に輝く名物の牛もつ煮込み、揚げたてをすためにをつけて並べられた鶏の唐揚げ、盛りの枝豆、自製のポテトサラダ。カウンターから奥のがりの座敷に至るまで、が腹杯みいできるだけの豪な料理が所狭しと並べられていた。
この『鉄』は、元々はテツの父親がく守ってきた衆居酒だった。だが、バブル崩壊の引く景気と常連客の齢化、さらには父親の脳梗塞による入院がなり、半に廃業寸の危に追い込まれていた。
「テツ、もうこのは畳む。
広告
おはせっかく部のイベント企画会社に入ったんだ。泰なサラリーマンのを捨てるんじゃない」
病で力なく首を振る父親のを握りしめ、テツは会社に辞表を叩きつけた。子供の頃、厨で忙しくフライパンを振る父親の背を見て育った。常連客たちがの疲れをジョッキの泡とともに洗い流し、笑顔でをていくあの温かい空を、自分の代で終わらせるわけにはいかなかったのだ。
だが、現実は甘くなかった。脱サラして引き継いだものの、客はすぐには戻らない。改装費用と親の治療費で借入は膨らみ、々の仕入れ代の支払いすら毎末の綱渡り。今夜の曜、この予約が入らなければ、翌週の形決済を落とせず、本当にを畳まなければならない崖っぷちにたされていた。
そんなテツの苦境をり、声をかけてきたのが、職のイベント企画会社『プロモ・エンターテインメント』で同期だった真治(しんじ)だった。
「テツ、おが会社辞めて継いだ、潰れそうなんだってな? よし、俺が肌脱いでやるよ。今度の曜、うちの部署の若と取引先のスタッフ集めて、名の貸切宴会を入れてやる。千円のみ放題コースで頼むわ」
真治の言葉に、テツは涙がるほど謝した。会社の仲たちがまだ自分を覚えていてくれた、応援してくれている——そう信じて疑わなかった。
広告
こののために、眠を削ってへ通い、なけなしの運転資をすべて注ぎ込んで最ランクの材を仕入れた。アルバイトの学も名追加でシフトに入れ、万全の態勢をえていたのだ。
計の針が午分を指した。宴会の始予定刻である午まで、あと分。
厨の話が、けたたましいベルの音を鳴らした。
テツは両をエプロンで拭い、勢いよく受話器を取りげた。
「はい! 居酒鉄です!」
『ようテツ、仕込み頑張ってるか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、真治の声だった。しかし、その声のトーンには、宴会の揚など微もなかった。どこかくで響くような、軽で、馬鹿にしたような笑い声が混ざっている。
「真治! 準備はバッチリだぞ。刺も今朝獲れたてのいいヒラマサが入ったし、もつ煮も親父直伝のでバチッと決まってる。みんな何頃に着きそう——」
『あー、テツ。悪いんだけどさ、おの、もう廃業したんじゃなかったのか?』
受話器の向こうからの突然の言葉に、テツの考が瞬止した。
「……は? 何を言ってるんだ真治。廃業なんてしてないぞ。さっきも言った通り、分の料理も席も完璧にえて待ってるんだ」
『えー? マジで? 俺の勘違いだったか? いやー、このうちの同僚が昼に通りかかったらが閉まってたって言うからさ、てっきりもう潰れたのかとってたわ。
ま、いいや。今さ、全部キャンセルしてくんね?』
「……キャン、セル……?」
テツのから、乾いた掠れ声が漏れた。
『そう、キャンセル。がやってないとったからさ、今、別の所で部たちとバーベキューやってんだよ。が気持ちよくてさ、ビールがうめえのなんのって! いやー、マジですまんすまん!』
話の奥から、けたたましい笑い声と「かんぱーい!」という若者たちの歓声、肉がジュージューと焼ける音がはっきりと聞こえてきた。
勘違いなどではない。最初から、このに来る気など毛なかったのだ。
会社を辞めて崖っぷちでもがく元同僚を嘲笑うためだけに、という巨額の予約をチラつかせ、直で梯子をす——あまりにも湿で、底れぬ悪に満ちた罠だった。