"「お前には継がせない」と言った父が、最後まで守り続けたもの" 第1話
昭、の夕暮れ。 関の古い町に伸びる旭町商は、夕飯の買いしに急ぐ駄の音と、魚を焼く煙に包まれていた。 駅から歩いて分、幅ほどの通りのほどに、造階建ての「佐々商」があった。
のには、醤油樽と噌樽が並び、ガラス瓶に入った塩や砂糖、箒やハタキ、ちりといった荒物用品が、梁から吊るされた裸球の暗いに照らされている。 「困ったは佐々さんのへけ」 所の主婦や町の職たちが、そうを揃える創業余りの万(よろずや)だった。
「郎、奥の噌樽の蓋を閉めたら、帳のに座りなさい」
帳格子の奥から響いたのは、主であり父である佐々源(げんぞう、歳)の、く濁った声だった。 男の郎(いちろう、歳)は、染めの掛けでを拭きながら、からがりの畳へとがった。
ちゃぶ台を挟んで、母のフミ(歳)が針箱の横で正座し、歳の弟・健(けんじ、歳)が、細い体を縮こまらせるようにして俯いていた。 はのたいが吹き始め、軒先の杉玉がカサリと音をてている。
「父さん、の仕入れの件か? 駅の卸問の田さん、醤油の掛け売りを今末まで待ってくれるって――」
「郎」 源は元のそろばんから目をさず、郎の言葉をややかに遮った。
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く刻まれた眉の皺が、球の傘のに沈んでいる。
「このは、おには継がせない」
ピシリ、と帳格子の枠が鳴ったような気がした。 の柱計が刻むボーン、ボーンというの鐘の音が、やけにく聞こえる。
「……え?」 郎は自分のを疑った。わず笑みがこぼれた。冗談だとったのだ。 「何言ってんだよ、父さん。晩酌にはまだいだろ。俺が継がないで、誰がこのを――」
「健に渡す」
源はそろばんをパチンと弾き、顔をげた。 その双眸には、切の冗談も、酔いもなかった。氷のように徹な、揺るぎない決断のが宿っていた。
「来から、健を帳に入れる。台帳も、印鑑も、問との取引座も、すべて健の名義にき換える。……郎、おは来に、このをていけ」
ちゃぶ台の向こうで、母のフミが「お父さん、そんな無茶な……!」と息を呑んだ。 健は顔面を蒼にし、膝ので握りしめた拳を刻みに震わせている。
郎の喉の奥が、カチカチに干からびた。 幼い頃から、自分はこのの代目になるのだと信じて疑わなかった。 学を終えればランドセルを放りして番にち、学をてからは自転の荷台にい米俵や噌樽を縛り付け、町の々へ配達して回った。 を卒業する際、京の名繊維商社からい込んだ破格の就職を、「俺は親父の背を継ぐ」
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と断り、同級たちが野きの夜列に乗り込むのを誇らしげに見送ったのは、ならぬ自分だったはずだ。
「……なんでだよ」 郎の声が、をうようにくなった。 「健は……健は体がいだろ! まれつき肺を患ってて、斗缶つ持てないじゃないか! い荷物を運ぶのも、頑固な問と渡りうのも、俺にしかできない! 商売なら、俺の方が何倍も向いてるだろ!!」
源は何も答えなかった。 ただ、使い古した黒革の売掛帳をパタンと閉じ、ちがった。
「おには、別のがある。……それだけだ」
背を向け、奥の仏へと消えていく父の頑なな背。 郎はち尽くしたまま、掛けを握り締めた。 掌ので、爪が皮膚を突き破るほどくい込んでいた。
翌朝、夜けの暗がりの、郎は自分の部でボストンバッグに荷物を詰めていた。 詰め込むものはなかった。着古したシャツが数枚と、仕事用のズボン、代の卒業証。 部の隅には、昨まで誇らしげに腰に巻いていた、号の染め抜かれた染めの掛けが、脱ぎ捨てられたまま転がっていた。
ギイ、と襖が細くき、弟の健が青い顔を覗かせた。 「……兄さん」
郎は振り向かなかった。荷物の留めをパチンと鳴らす。 「何の用だ。代目の若旦」
「兄さん、頼むからかないでくれよ……!」
健が素のまま部に滑り込み、郎の腕に縋り付いた。