みかん小説
本棚

"不在着信93件の朝" 第1話

を終えたのリビングには、満腹からくる独特の弛緩した空気が淀むように漂っていた。型テレビの巨な液晶画面からは、ゴールデンタイム特の騒々しいバラエティ番組の効果音と、タレントたちの誇張された笑い声が絶えなく響いている。

台所のシンクのち、岡崎みつ子(歳)は、たさが残り始めたに赤く荒れた指先を浸していた。首には事と々の緊張で染み付いた張りがある。スポンジにわずかに含ませた洗剤を泡て、族が使い終えたい平皿を枚ずつ丁寧に擦る。流の音に混じって、背のリビングテーブルから陶器とスプーンがぶつかりう乾いた音が微かに届いていた。

ふと流をめ、泡を洗い流そうとしたそのだった。

にある質なイタリア製の本革張りソファから、くつろぎきった姿勢の嫁・里の声がんできた。彼女は級なクッションを胸に抱え込み、最型のスマートフォンを細い指先で素くフリックしながら、テレビの画面から線をさずに言った。

「お母さん、いつも『今も苦しい』とか『変だ』って愚痴ばっかり言ってますけど……そんなに嫌なら、ローンの支払い、く止めてみたらどうですか?」

里の元には、まるでありふれた冗談をにしているかのような、軽で侮蔑を含んだ笑みが浮かんでいた。

広告

罪悪や悪びれる様子など微もない。ネイルサロンで入れされたばかりの艶やかな指先が、気だるそうに画面をスクロールしている。

その隣で、を組んで寝そべるようにして座っていた息子の志が、にしたリモコンを弄びながら、面そうに喉を鳴らして同調した。

「そうだよ母さん。嫌ならやめてみろよ。どうせ俺たちに頼りにされてないときていけないくせに、できるわけないだろ?」

息子のく嘲るような言葉がリビングの空気を鋭く震わせ、みつ子の朶を容赦なく打った。

その瞬、みつ子の界ので、世界のが完全に止したかのような錯覚に襲われた。

から流れ落ちるの細い軌跡。換気扇のく規則な回転音。テレビのるすぎる極彩滅。それらすべての現実瞬にしてのき、が真っな空で満たされていく。

みつ子の両わず静止した。

洗っていた皿を両で挟み込んだまま、指先がかすかに、しかし抑えようもなく刻みに震え始める。泡のついた磁器の滑らかな触が、なぜか氷の塊のように皮膚を突き刺した。

(毎万円……。に直せば万円。こので、総額千万円ものを、爪にを灯すようにして払い続けてきた私に対して……返ってきた言葉がこれなの……?)

胸の最部で、何かが軋み、音をてて砕け散る覚があった。

広告

皿を握る指先に爪がくなるほど力を込め、みつ子はく俯いたまま、奥歯が砕けんばかりに噛みしめた。体を駆け巡る激しいりと、それを回る虚無。震えを必に抑え込もうとするが、膝の裏まで震が伝わっていく。

ふと横を見ると、ダイニングテーブルの隅でさくなっていた夫の正歳)が、固く目を閉じ、両を膝ので握りしめて耐えている姿が目に入った。その横顔には、い屈辱と耐え難い痛みが刻まれていた。

その夜、みつ子は階の古い寝に入り、暗で吸い込まれそうな井を見つめていた。隣で横たわる正の浅い寝息が聞こえる。夫もまた、眠れずにいることは背さで分かっていた。

みつ子のに、これまでの度も抱いたことのない、たく研ぎ澄まされた刃のような決が、静かに芽えていた。

(本当に、やめてみよう)

それは突発なヒステリーやりではなかった。というい歳で、の底に沈殿し、幾にも圧縮されてダイヤモンドのように化した、絶対な覚悟だった。

翌朝、みつ子のスマートフォンには、里から件もの着信が残されることになる。だが、みつ子がその呼びし音に対してけをかけ、応答することは度となかった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: